MENU

【奇妙な日常】袋小路への招待

川沿いを歩きながら、瀬田はやけに静かな水面を眺めていた。いつもは釣り人や散歩の人でそこそこ賑わうはずなのに、その日は妙に人影が少ない。じっとしていると背後で足音がして、かすかな息づかいまでもが耳に届く。振り向くと誰もいない。そうして三回ほど振り向いたところで、瀬田はふいにジョニ男がこちらを見ているのに気づいた。ジョニ男はいつものように軽く顎を引き、気のない表情のまま、スマホを見ながらあくびをしている。どうやら彼も同じ道を通ってきたらしいが、瀬田には彼の足音が先ほど聞こえたものとは微妙に違うように思われた。

二人は特に言葉を交わさず、緩やかに川沿いを歩いていった。夕闇が迫るにつれて、街灯の灯りがぼんやりと滲み、彼らの影を足元に落とす。そんなとき、小雨の姿を見つけたのは瀬田だった。橋のたもとで、図書館帰りの小雨が何かを探すようにきょろきょろしている。近づいてみると、彼女は落ち着いた口調で「夕方になると川辺に変な光が浮かぶって噂を聞いたんです」と呟いた。小雨らしい静かな口調だが、その瞳には微かな警戒感がある。ジョニ男が苦笑しながら、「そんなの確かめたって意味ないっしょ」と言い放つと、小雨は「でも利用者から相談されたんです、図書館にそういう怪談をまとめた本がないかって」と控えめに答えた。

三人で橋を渡りかけると、まるで誰かが呼ぶような風音が耳元をかすめた。瀬田は思わず背筋を伸ばし、あたりを見回す。橋の下から、あるいは遠くの倉庫街からかもしれないが、かすれた声のようなものがする。それは低く、ざらざらしていて、言葉というよりは何かの啜り泣きに近いようでもあった。ジョニ男が鼻をすすって、「ここ、前に紅倉区から越してきた漁師が失踪したって噂があったけど、それと関係あるかな」とぼそりと呟いた。彼の顔は笑っていない。小雨は急に不安そうに眉を下げて、図書館で聞いた話を思い出しているのか、鞄を抱きしめるように身構えた。

橋を渡りきったところで、背後から冷たい風が吹き、街灯が一瞬かすかに暗くなる。瀬田は反射的に振り返るが、ほんの数秒前までいた道が、何か白い霞のようなもので遠く感じられる。ジョニ男は軽く舌打ちし、「何か嫌な感じ」と口走る。小雨が「先に進みましょう」と提案するが、その声にも震えが混じっている。結局三人は川沿いを少し回り道し、別の階段を上がって表通りに戻ることにした。

ところが、表通りに出るはずの曲がり角を曲がっても、なぜか住宅街の奥まった場所に出てしまった。瀬田は地図に詳しいはずだったが、自分がどこを歩いているのか急にわからなくなる。家々の窓は薄暗く、誰もいない路地が果てしなく続いているように見えた。小雨は慣れない場所に心細くなったのか、「こんなところに出るはずじゃ」と困惑する。ジョニ男は「いい加減、帰りたいんだけど」と文句を言いながらスマホを取り出すが、GPSの反応が弱く、地図アプリも正確な位置を示さない。電波はあるのに、なぜか画面がバグを起こしたように揺れている。

仕方なく三人で引き返そうとするが、通りはさっきまでと違う場所に変わっている。あるはずの看板が消え、曲がり角の電柱に貼られていた広告がまるで破れた布のようになびいている。それが風にさらされるたび、びりびりと不快な音を立てるものだから、三人の足が自然と止まってしまった。瀬田が恐る恐る電柱に近づくと、その布切れの裏側に黒ずんだ文字が幾重にも書き込まれているのが見えた。どれも人の名前のようだが、ところどころ塗り潰されていた。ジョニ男は「何これ、気持ち悪」と軽く嘲笑したが、その声も心なしか上ずっている。小雨は手帳を取り出してメモしようとしたが、震えて書けない様子だった。

やがて道の先に何か動く影が見え、瀬田が思わず「あれ、人かな」と声を上げる。ジョニ男が「おい、すみません」と声をかけると、その影はふわりと動きを止め、こちらをじっと見つめてきた。正面から街灯の光が当たらず、形がはっきりしないが、どうも人の等身よりは大きい。それが一歩ずつ近づくたびに、地面に変な歪みが走り、視界の端がしんしんと凍るように暗くなる。小雨は怯えきった様子で、一歩後ろに下がった。瀬田は一瞬、このまま走って逃げようかと思ったが、足がうまく動かない。ジョニ男も「あ…あれ」とかすれ声を出すだけで、いつもの飄々とした態度は消え失せている。

すると、その影の背後から別の何かが素早く横切り、かすかな足音とともに夜の闇に溶けていった。瀬たちはどう動けばいいのか分からないまま、三人でただ黙って佇んでいた。そっと視線を落とすと、路地のコンクリートに複雑な模様が刻まれているのが分かる。それはまるで、ここが裏側の世界と繋がっていることを示す境界線のようにも見えた。

ジョニ男がたまらず「もう帰ろう」と言い、携帯でタクシーを呼ぼうとするが繋がらない。小雨が懐中電灯を出して照らすと、さっきまでなかった石碑のようなものが道の隅に鎮座していることに気づく。そこには歪んだ文字で「ここで道を曲がるな」と彫られていた。瀬田が「これ、いつからあった?」と困惑するが、答えられる者はいない。三人の心臓の鼓動は高まり、胸の奥がざわつく。耳鳴りのような低い音が周囲を包み、夜の闇がどんどん濃くなっていく。

その時、一陣の風が吹き上げ、石碑の表面から白い粉のようなものが舞い上がった。瀬田は顔を覆い、ジョニ男はくしゃみをし、小雨は後ずさりして壁にぶつかる。すると突然、道路の向こう側に自販機の光が浮かんだ。まるで蜃気楼が急に具現化したように、そこだけがぼんやり明るい。三人はわずかな望みを抱いて自販機へと駆け寄る。けれども、その自販機は何ともいえない奇怪な商品ばかりを並べている。紙コップのジュースでもなければ缶コーヒーでもない、どのボタンにも意味不明な文字と白黒写真のラベルが貼られている。ひとつ押そうとすると、ボタンの裏側から冷たくざわざわした感触が伝わってきて、瀬田は思わず手を引っ込めた。「やめたほうがいいかも」という小雨のか細い声に、ジョニ男も頷きながら気まずそうに視線を逸らした。

結局その道ではどこへ行っても同じような不可解な景色が続いた。曲がり角をいくつ越えても、同じ看板、同じ家並みが繰り返されているようで、時間がぐるぐると輪を描いている気さえする。ふと気づけばジョニ男が「もう二十周くらいしてないか?」と苛立った口調で言った。瀬田は頷くしかなかった。小雨が、「こういうとき、図書館で読んだ話じゃ、誰かが逆に戻ると抜け出せるとか…」とおそるおそる提案した。仕方なく三人は来た道を逆行しようとしたが、さっきから同じ道しか見当たらない。通りの先で見つけた行き止まりが、次の瞬間には別の道に化けていたりもする。

もはや笑える状況ではない。瀬田は立ち止まって深呼吸をしようとするが、胸がえぐられるように息が詰まる。ジョニ男がスマホを叩きながら「くそ、電波もあるはずなのに」と歯噛みする。小雨は心底心細そうに、「誰か助けてくれれば」と呟いた。だが次の瞬間、遠くからかすかに聞こえる足音。三人が期待を込めてそちらを振り向くと、不気味なまでに背の高い影が通り過ぎるのが見えた。その影は一瞥もくれず、闇の奥へ消える。助けを呼ぼうと声を出す間もなく、また静寂だけが残る。

わずかに月が雲間からのぞき、路地の地面が青白く照らされると、そこに小さな張り紙のようなものが落ちているのが見えた。瀬田が拾い上げると、それは何らかの注意書きに見えるが、文面は半分かすれていて読めない。唯一読める部分には「……出るには、ひとり……」という文字がある。ジョニ男は口をへの字に曲げ、小雨は顔をこわばらせる。何かを犠牲にしなければここから出られないとでも言うような、その曖昧な断片が脳裏を冷たく刺す。

結局、三人は行くあても分からぬまま、深夜に近い時間までさまよい続けた。道がゆるくうねり、彼らの意識までもが次第にぼやけてくる。瀬田の足は重く、ジョニ男は無言で苛立ちを噛み殺し、小雨は涙をこらえながら一歩一歩を踏みしめている。すると唐突に視界が開け、まるで何事もなかったかのように知っている商店街のネオンが目に飛び込んできた。三人とも茫然と立ち尽くすが、先ほどの路地の気配はどこにもない。ジョニ男が「夢だった、ってわけじゃないよな」と誰ともなく呟く。小雨は言葉もなくうなずき、瀬田はようやく安堵したのか、尻餅をつくように座り込んだ。

だが、その瞬間、辺りのどこかで鈍い笑い声のようなものが響いた。三人は顔を見合わせ、恐る恐るあたりを見回す。何もいない。代わりに、自販機の隣にひっそりと置かれた古びたベンチに、ぼろ切れのような封筒が置いてあることに気づく。瀬田が震える指でそれを開くと、中から出てきたのは意図不明な地図の断片と、誰かの名前が断続的に書かれたメモ。それらが何を意味するのか見当もつかない。ただ三人には分かっていた。あの路地はまだそこにあるし、自分たちを呼び戻そうとしている。現実に戻ってきたはずなのに、逃れられない感覚が背後に張りついているのだ。

翌朝、それぞれ自宅に戻った三人は、ほとんど眠れないまま仕事や日常を再開しなければならなかった。何事もなかったように繰り返される平凡な風景の中で、彼らは一様に昨夜の出来事をどう片づければいいか分からない。瀬田は書店で地図をめくっても、あの路地らしきものは載っていない。ジョニ男は友人に話そうにも信じてもらえず、小雨はひそかに図書館の資料を調べはじめるが、それらしき記録は出てこない。やがて三人はそれぞれの忙しさに流され、あの恐怖は遠ざかっていくかに思われた。しかし心の底には、あの曖昧な境界がまだ残っていた。いつかまた呼ばれるのではないかという、不穏な予感が消えないまま、彼らは自分の持ち場へ戻るしかなかった。どこかにひそむ闇の出口を、誰も塞げずにいるのだから。

目次
閉じる