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【奇妙な日常】不思議な猫に招かれて

「ねえ、タオさん、朝からずいぶん忙しそうじゃない? 何かあったの?」

社務所の縁側に座って爪の土を落としながら、しじみが声をかける。周りはまだ淡い霧が漂う朧(おぼろ)区の境内。山の空気がひんやりして気持ちいいが、鳥の声は少し頼りなく響いている。そこでタオは大きく伸びをして、ふう、と息をついた。

「ま、いつもの作業だよ。夜中に奉納物が風で飛ばされてな。早朝から拾いに山道を駆け回ってた。いやあ、体は慣れてるけど、こうも毎日アクシデント続きだとさすがにクタクタだ。」

力強い腕で白い祭事用の作務衣を払うタオ。男勝りな雰囲気に、しじみは慣れたものの、巫女装束をかける姿からは想像できない豪快さだとあらためて思う。

「ふーん、やっぱり大変ね。私は今日は山には行かないつもり。朝に猫と遊んでたら、なんだか気が乗らなくて」

「ん? 猫? また例の不思議な猫に招かれてとか言うんじゃないだろうね?」

「そう、それ。呼ばれたような気がしてさ。つい引き寄せられそうになったんだけど、やっぱり胸騒ぎが止まらない。いっそ無視してここに来たほうが落ち着くかと思って。」

「はは、相変わらずね。霧の朧区には変な猫が多いけど、その子には特別心配してんの?」

しじみが小さく息を呑む。「いや、心配というか……あの猫が見せてくれた、いわゆる“招かれた先”って、妙に薄暗い古い場所みたいなの。そこに何か……遺影を並べた部屋が見えた気がしたんだよね。幻覚かもしれないんだけど、ちらっと覗いたら遺影がたくさんあって……」

タオは、はっと眉を上げる。葬儀だとか、古い写真だとか、そういうのには神職として触れる機会は少なくはないが、“並んだ遺影”となると、ちょっと薄気味悪い。“もしかして不慮の事故や事件がらみか?”と勘ぐってしまう。

「それはちょっと不穏だな。猫が誘う先が、なんでまたそんな部屋? まさか何か成仏してない人たちに関係があるとか…?」

「……さあ。でもすぐに逃げ出しちゃった。あたしが見る限り、遺影は家族の写真って感じじゃなくて、まるでコレクションみたいにずらっと置かれてるように見えたの。まぁ、実際に見たわけじゃなく、猫の後ろ姿の向こうにチラッと見えただけだから、私の見間違いかもだけど。」

タオは黙って思案する。この霧のある街では、妙な話は日常茶飯事と言っていい。でも、猫が案内する先に遺影が並んでいるというのは、穏やかじゃない。

「一応、神社としても見過ごせん話かもな。場合によってはお祓いとかね。でもそもそも、あたしが“行くか”って言ったらどうする? 一緒に来る?」

「うーん……こないだタオさんと山入るとき、あたしが足を滑らせてえらい目にあったでしょう? あれ以来、あんたと山歩きするのはちょっとビビってんのよね」

「あれは私のせいってわけじゃ……でもま、あれは悪かった。あなたの動きが予想外に速かったんだ。つい、守りきれなかった。すまんね」とタオが肩をすくめる。険しい崖でしじみを引き上げ損ねたあの日のこと。しじみは骨まで凍えるような思いをした。

「別にあんたを責めるつもりじゃないよ。私だって猫の誘い先になんか行きたくないし、どうせ何かトラブルに巻き込まれる匂いがプンプンする。……で、どうするの? 行くなら気をつけなよ」

「気をつけなよ、って人ごとみたいに。あんたも注意しとくんだよ。“遺影”が云々って話、冗談で済むならいいけど、朧区は霧と一緒に変なことが起きること多いし」

しじみが腕を組み、「わかってる。今日は山登りも猫捜しもしない。むしろ私は家で大人しくしてようかな」と言う。タオは笑い、「あのしじみさんが大人しく?」と首を振るが、しじみは真顔だ。「だって不安なの。そういうの嗅ぎ分けるの、私得意でしょ?」

神社の境内にはかすかな人の気配が増えてきた。参拝客だろうか、遠くからお百度参りの足音が響く。タオは軽くそちらを振り向き、「仕事があるから、一応準備してこよう」と腰を上げる。巫女装束に着替えるまでの間、しじみはどこか所在なげに周囲を見回す。

すると、風の向こうからか細い「にゃあ…」という声が聞こえた気がして、しじみはビクリと肩をすくめる。

「あ、今の聞こえた?」と小声でタオに訊く。タオは少し耳をそばだてるが、「わからん。猫か?」と首を傾げる。

「多分……でも、すぐ遠くに行っちゃったかも。うわあ、もう何か嫌な予感。あの猫かもしれない」

「ま、あんまり考えすぎんなよ。そういうときこそ落ち着いて対処だろ。何かあればあたしを呼べばいいさ。例の通り、格闘技と神事の合わせ技でどうとでもなる。あんたも動物好きなんだからさ、基本は大丈夫だって」

しじみはほんの少し和らいだ表情を浮かべ、「……そうかもね。じゃあ、ひとまず私は今日は帰って猫のことは考えない。タオさんも山仕事がんばれ」と言い置いて、拝殿で小さく一礼し、帰路に着きはじめる。

「おう、気をつけてな」

タオは手を振りながら、神社奥の社務所へ向かった。どことなく静かになった境内の空気は、やや冷たくなってきたようだ。霧がじわじわと山から押し寄せるかもしれないが、仕事は山積み。タオは素早く装束を整えて、次の務めに備える。

夕方前、しじみは商店街で買い物を済ませ、バッグを抱えながらふと空を見上げる。あの白い猫が不思議な声で招く姿を思い出す。遺影だとか、暗い古家だとか、なんでそんな映像が頭に浮かんだのか……彼女自身にもはっきりした理由はない。ただ心がざわざわしたのは確か。

「何も起こらなければそれが一番……でも、うーん……」

小さくつぶやきながら、彼女はいつもの自宅前に到着した。朧区の家並みはどこも落ち着いた古い建築が多いが、その分霧や暗さが怖さを増すこともある。しじみは首を振ってドアを開け、「早めに寝よう」と心に決める。

その頃タオは神社の拝殿脇を掃き清めながら、昼過ぎに聞いた話を思い返す。猫、遺影、招かれる……いかにも朧区の霧が絡んできそうな話だと少しだけ思う。しかし今は神事を最優先せねば。日が沈めば、いつものように夜の警備もやらなきゃならないし。

結局、その日の夜になっても特に事件が起こったという報せは入らず、しじみも家で大人しく過ごし、タオは日課の山裾巡回を済ませただけ。霧は薄く、猫の影も見当たらない。参拝客や地元の人々は、いつもと変わらず静かな夕べを迎えた。

翌朝、早い時刻に神社に顔を出したしじみが、タオに明るい笑顔で話しかける。「ねえタオさん、昨夜は特に何もなかった?」と。タオは「うん、変わった様子はなし。こっちもご祈祷が滞りなく終わって、いつもの朧区って感じ」と答える。

しじみは少しほっとした様子で、「やっぱりさ、私の考えすぎだったかな。猫に招かれてとか言っても、結局何も…」と言いかけて、タオが肩を軽く叩く。「そういうこともあるだろ。恐れすぎもダメだけど、一応警戒は大事。でも今日は天気もいいし、落ち着いて暮らそうや。あんたも肩の力抜けって」

しじみは照れくさそうに眉を下げ、「そうだね、ちょっといろいろ考えすぎたかも。気にしすぎて夢見が悪かったし」と笑う。その笑みはどこか眠そうだが、ずいぶん気が楽そうでもある。

境内には朝の光が柔らかく差し込んでいる。朧区の山々はうっすらと金色に染まり、霧はまだ深い場所もあるが、鳥たちの声がにぎやかに広がっていた。タオはいつものように大きく伸びをし、「じゃあ今日もがんばるか!」と力強く宣言。しじみは「うん」と小さく相槌を打つ。

そうやって二人は、何事もなかったように元気を取り戻し、いつも通りの一日を始めていくのだった。

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