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【奇妙な日常】謎のバイトを撮影した配信者との出会い

ここが冥ヶ崎市なのか、それとももっと別のどこかなのか、あまりはっきり区別できないまま、私は奇妙な話を聞かされることになった。Mというホラー系YouTuberが、ある噂を追ってこの街に来たのはつい先日のことだと聞く。その噂というのが、深夜の路地を黙々と歩きながら卒業文集を落としていくアルバイトの話だった。私自身はその都市伝説に興味がなかったのだけれど、なぜか彼の動画の一部を見せられる機会があった。そこには、ランドセルのようなリュックを背負った若者が、夜の静まり返った商店街を歩いていく様子が映っていた。彼の足もとは不自然にガクガク震え、無表情のまま紙束らしきものを道端に投げ捨てていく。画面の向こうで、Mの声が微かに震えながら「これ、ガチでヤバい雰囲気じゃん……」とつぶやく。いつもの彼なら軽口を叩きそうな場面だが、そこには薄暗い懸念が漂っていた。


その動画を見てから数日後に、私は何ともいえない既視感を覚え始めた。まるで街じゅうが、少しずつ色合いを失いかけている気がしたのだ。夕暮れの商店街を歩いていると、シャッターが降りたままの店がいくつか目につく。昔からこの街はシャッター商店街気味ではあったけれど、今日はどこか、静寂が不自然なほど滲んでいる。風鈴の音さえ、まるで遠のいていくようだった。そういえば、あの動画で映っていた場所にかなり似通った道がある。私はどうしても気になってしまい、仕事帰りの足を少し遠回りにして、そこへ向かうことにした。夜半過ぎになれば、あるいはあのアルバイトの青年が現れるかもしれない。そんな期待と恐怖が半分ずつ、胸をざわつかせる。


街灯の少ない裏路地に入ると、風が妙に生温かい。まるで人肌が吐き出す湿気のように、肌を包み込む。不意に、コツコツと靴音が聞こえた。私は思わず足を止める。遠くからゆっくりと、リュックを背負った男が歩いてきた。暗闇の中でシルエットだけはっきり見えるが、顔の表情がまるでわからない。手には何か分厚い紙束を抱えているように見える。息を潜めて隅に隠れて様子をうかがっていると、彼は意外にも立ち止まらず、一定のリズムで前進を続ける。足音が私のすぐそばをかすめるとき、その紙束から何枚かが路面に落とされた。紙がはらりと舞い上がり、風に乗って私の足元を撫でていく。卒業文集だろうか。ふと、その一枚が月明かりに照らされ、「自分の将来は忍者になる」と子供っぽい文字で書かれているのを認めた。


胸の中に奇妙な感情が広がる。あまりに幼い夢を記した文章が、こんな深夜の路地に散らばっているのだ。そのギャップに、何か言いようのない不安を覚えた。アルバイトの青年は、まったくこちらに気づく様子もなく、歩き去っていく。やがて街角を曲がり、姿を消した。


私は勇気を振り絞り、その紙片を拾い上げた。そこには幼い筆跡で、自分の夢や家族のこと、好きな食べ物などが綴られている。まるで十歳かそこらの子供が書いたものだろう。「ぼくの将来は忍者になって、みんなを守りたいです。お父さんは反対するけど、ぜったいあきらめません」と赤鉛筆の下線まで引かれていた。視線を上げると、路面には同じような卒業文集の切れ端が散乱しており、それぞれが見覚えのない子供たちの文字を載せていた。私は怖くなった。どうしてこんなに大量の文集が夜中に捨てられているのだろうか。そして、誰が何の目的で?


ただ、思い出してみれば、Mはあの動画で「本当はもっと深夜に撮影すれば、何かが映るのかもしれないけど、それは危険だからやめとくよ」なんて言っていたように思う。彼はホラー系YouTuberとしてある程度の冒険はするが、命まで投げ出すほど無謀でもない。あれから続報の動画が出ないところを見ると、何か思うところがあって引き上げたのだろうか。そう考えると、逆に私は押さえきれない好奇心に駆られ、さらに夜の街を歩き回る羽目になったのだ。子供のころから、意味不明なものに惹かれる性分だったのを思い出す。


路地を曲がった先に、車道沿いのわずかに開けた空間があった。普段は駐車場として使われているのだろうが、今夜は一台も車が止まっていない。その真ん中で、先ほどの青年らしき人物がかがみこんでいる。まるで地面に穴でも掘るかのように、じっと手元を見つめている。一歩近づくと、その周囲には無数の卒業文集の束が円形に並べられていた。表紙を開かれたまま、ぐるりと取り囲む光景はどこか異様だ。青年は無言で何かをしている。さらに近づこうとしたとき、耳元で「やめておいたほうがいい」という声が聞こえた。咄嗟に振り返ると、そこにいるのはMだった。いつの間にか、私の背後に立ち、動画用のカメラを持っている。


「……マジでヤバい雰囲気しませんか」と、Mは低い声で囁く。私は意識していなかったが、背中には冷たい汗が滲んでいる。彼は静かに私の腕を引き、路地の影に身を隠すと、「見てるだけならいいっすけど、下手に近づくと巻き込まれますよ。俺も前にチラッと追いかけて撮ろうとしたら、カメラに妙なノイズが入って……それ以来、あの動画はアップしてないんすよ」と続けた。確かに、彼のチャンネルには途中からこの卒業文集に関する動画がパタリと上がらなくなっていた。彼なりに警戒しているのだろうか。


青年はやがて姿勢を正すと、周囲に並べられた文集に何やら呟き始めた。その言葉は距離があるためはっきりとは聞き取れないが、リズミカルに何度も繰り返しているようだ。まるで祈りか呪文か。私は息を飲んだ。Mがカメラを向けようとした瞬間、いきなり青年の動きが止まる。まるでこちらの気配に気づいたかのように、首をゆっくりと回して、我々の方向を向いた。しかし、その顔は街灯の陰になってよく見えない。代わりに白い歯だけがうっすらと浮かび上がる。笑っているのかもしれない。ぞくりとした。Mが慌ててカメラを下げると、青年は再び視線を外し、今度はひとつずつ文集を拾い集め始めた。すると不思議なことに、拾うたびにその周囲の景色がゆがんで見える。高層ビルの窓がわずかに形を変え、看板が見覚えのないフォントに切り替わっていく。音が歪むわけでもなく、光が乱れるわけでもないのに、ただ現実の形態が少しずつズレていく感覚だけがはっきり伝わってきた。


私は叫びそうになるが、どうにも声が出ない。Mも黙りこくっている。やがて全ての文集を拾い終えた青年は、何事もなかったかのようにリュックを背負い直し、ゆらりと立ち上がる。すると、あたりの風景が元に戻ったかに見えた。青年は路地を奥へと進み、姿を消す。私と、Mはしばらく動けなかった。ようやく安堵というよりは、混乱の中で意識が落ち着いてきた私は、あたりを見回した。そこは以前と同じ駐車場のはずだが、壁に貼られたポスターの図案が微妙に違っているような気がするし、近くに並んでいた自動販売機の色も変わっている。Mは静かに呟いた。「前はここに、赤い自販機があったんすよね。いつの間に青に変わったんだろ」


二人して何も言えず、ただ立ち尽くすしかなかった。足もとを見やると、一枚だけ文集の切れ端が残されている。先ほど青年が拾い忘れたのだろうか。私は躊躇しながらもそれを拾い上げた。「大きくなったら、海賊王になりたい」「ドクロの旗を立てて、世界中を旅するんだ」。まるで子供の夢そのもののような直球の文章が書かれている。一方、余白には謎の書き込みで「あなたの世界を塗り替えます」とも読み取れる文字が書かれていた。塗り替えます? 思わず目を疑うが、他に誰もいないこの状況で私たちはどうすることもできず、ただ寒気を覚えるだけだ。


Mは意を決したように口を開く。「俺、ちょっとこの現象を追ってみるっすよ。さっきはビビったけど、これ、ヤバいネタになるかも知れないし……ただマジで危険かもしれないから、動画にするかは分かんないすけど。あんたはどうします?」私には即答できなかった。あの青年と同じアルバイトをしている人間が、街のどこかにまだいるかもしれない。あるいはその目的を知る誰かが。Mと私の思惑は違えど、結局同じ場所を探し回ることになるだろう。しかし本能的に感じている。これは一筋縄ではいかない。下手すれば、また街そのものの風景が歪み、私の存在までもが、まるで別の世界に移されてしまうかもしれない。あの青年が拾い集めた文集の束は、たった数分のうちに駐車場の世界をちょっとだけ変容させてみせた。もしもっと大量の文集が集結すれば、もっと大掛かりな“塗り替え”が起きてもおかしくないのではないか。そう考えたら、背筋が凍えた。
Mは私の顔を見て、苦笑する。

「まあ、どのみちこんなヤバいネタ、誰も取り上げないっすよ。警察に行ったって相手にされないだろうし、俺の動画だって、普通なら合成とかデマって言われるだけっす。それがこの街の闇じゃないすか」確かに、あのアルバイトの姿を撮影したとしても、単なる「謎の行動をする男」程度にしか思われないかもしれない。あるいは真実の一片を映し出しても、多くの視聴者はフィクションとして楽しむだけだろう。けれども、我々は実際にそれを目の当たりにしてしまった。あれは作り物じゃない、紛れもない現実がゆがむ瞬間だった。そう確信せざるを得ない。私は唇をかみ締める。


「とりあえず、夜明けまで待ってみましょうか」と私が提案すると、Mはうなずく。「何かあったらすぐ逃げましょう。変に近づいたら俺らもああなっちゃうかもしれない。文集集めて世界塗り替えられてたまるかって感じですし」私もまた、夜明けを待つことで少しでも冷静に考えられると思った。二人で人気のないファミレスを見つけ、朝まで過ごすことにする。席につくと、周囲の客はわずかに一組しかいない。店のBGMが妙に底冷えした空気を際立たせる。壁に貼られたメニューのうち、いくつかが知らない料理名に変わっているように思えるのは気のせいか。私は嫌な予感に襲われる。もしかすると、すでに我々が見ている現実は少しずつ書き換えられているのかもしれない。


夜が明け、ファミレスを出るとき、Mが会計を済ませたが、そのときのレシートには「支払い方法:無」という奇妙な印刷がされていた。店員も特に気にせず「ありがとうございました」とだけ。わけがわからない。無とは何だ。どうしてこんな小さな異変が次々に連鎖しているんだろうか。私たちは言葉もなく、ただしばらく佇んでしまう。朝日が昇ってくる空は、いつもの冥ヶ崎のはずなのに、どことなく色が薄い気がするのだ。


「ちょっと周り見渡してみてください」と、Mが囁く。交差点の向こうにある薬局、看板の文字が変わっている。以前は緑色のカタカナだった気がするが、今はなぜか青色の妙な書体に変わっていた。同じ建物のはずなのに、表面だけ違う看板。街が書き換えられている証拠なのか、それとも我々の記憶違いなのか、どちらにせよ恐ろしい。まるで夜のアルバイトたちによって、街ごと“新しい設定”に置き換えられているような感覚に陥る。Mはカメラを回したいと言うが、朝になってしまったからか、もう道路には不気味な気配はない。「また夜になったら動き出すんですかね……」と呟く彼の声には焦燥感が混じっている。


私はふと、ひとつ気になっていた疑問を口に出した。「あのアルバイトの青年……あれは一人だけなんでしょうか?」もし同じ仕事をしている人間が複数いるとしたら、街の各所で夜な夜な卒業文集がばらまかれ、拾い集められている可能性もある。Mは大きく目を見開いた。「それ、あり得ますよね。ひとりであれだけの数の文集を運べるわけないっしょ。リュックに入る量なんて限界あるし」そういえば、動画のコメント欄でも「同じような光景を別の区で見た」という書き込みがあったと彼は言っていた。つまり、これは一箇所の現象ではなく、街全体を巻き込む大規模な“書き換え”なのかもしれない。ぞっとする。そんなことが本当に可能なのか。いや、論理で考えるのは無意味だ。この街には昔から不可解な噂が多い。結界だの呪術だの、眉唾ではあるけれど、今回の件に関しても単なる妄想とは断言できなくなってきた。


数日が過ぎた。私は仕事を休み、夜な夜な街をさまようようになった。Mは一緒に行動する日もあれば、別々に情報収集をしている日もあった。結果としてわかったことがいくつかある。まず、街の至るところで朝になると微細な変化が確認される。看板や店名が変わる、建物の形状が僅かに変化する、路地が増えている、果ては周囲の人々の記憶まで微妙にズレている。まるで誰かが楽器の弦を少しずつ調律しているかのように、現実のメロディラインを書き換えている感じがある。次に、夜間に卒業文集を投げ捨てているアルバイトは一人ではない。複数の目撃証言があり、どうやらそれぞれのルートで街を巡回しているという。そして彼らの挙動はかなり似通っており、無表情でリュックから文集を取り出しては道端に置いていき、あるいは拾って別の場所へ運んでいるようだ。

最後に、それらの文集には必ず子供たちの夢や将来の希望が書かれている。普通の卒業文集と変わらないようでいて、よく読むとどこか奇妙な言い回しや、断片的な呪文のような文が紛れ込んでいることがある。
Mは、ある晩にそれを撮影しようとしてまた映像が歪んだと言っていた。カメラが故障するわけではなく、撮ったはずの映像が再生するとき勝手に別の部分が挿入されていて、ブツブツと切り替わるらしい。誰かが編集した形跡でもあるのかと思いきや、そんなデータを改変する時間や方法など考えられないという。まるで“現実の映像”そのものが途中で書き換わっているようにしか思えない。やりきれない。まったく着地点が見えないまま、日常が薄皮を剥がすように変貌していく。


ある夜のこと、私たちは再びあのアルバイトの一人を見つけた。商店街のシャッターが並ぶ通りを、淡々と卒業文集をばらまきながら進んでいる。私は意を決して声をかけた。「一体、これを何のためにやっているんだ?」男は振り向きもしない。「報酬がいいのか?あるいは、誰に指示されているんだ?」無反応。Mがカメラを向けようとすると、男は立ち止まってこちらへ顔を向ける。その顔は、まるで人形のように感情が抜け落ちているように見えた。が、次の瞬間、口だけが動き、「あなたも、やりますか」と呟いた。あまりに不意打ちで、私もMも声を失う。男はそのまま背を向けて、再び文集を道端に置いていく。


茫然としているうちに男は角を曲がり、消えてしまった。追いかけようと走り出したが、そこには既に誰の姿もない。地面には無数の文集が積み重なっている。そのうちの一冊を手に取ると、表紙には「夢:血の海で宝探しをする」と赤い字で書かれていた。ページをめくると意味不明の落書きがびっしり詰まっており、どう見ても子供の書いたものではない。どこか不吉な記号と、歪んだ人の顔のようなスケッチが混在する。ぞっとした。「これはもう、ただの卒業文集とは言えないっすね……」Mが震える声で言う。私も同感だ。これはなんだ?子供たちの夢というには、あまりに禍々しい気配を帯びている。


その後、私たちは夜明けまで何冊か拾った文集を読みふけった。それらには確かに、普通の子供らしい夢が書かれているページも存在するが、途中から急に筆跡が変わり、奇怪な文章が挟まる。あるものは呪文じみた言葉を綴り、あるものは誰かに宛てた遺書めいた文を挟み、あるものはおぞましい怪物のイラストが並んでいる。そんなページをめくっているうちに、頭が痛くなってくる。文字を読むたびに、どこか自分自身が蚕食されていくような感覚があり、遠のく意識を必死に繋ぎとめるしかなかった。Mも顔を青ざめ、例のカメラを回すのを忘れているほど没頭していた。朝になった頃には、私たちのいる公園が微妙に形を変えていた。昔からそこにあるはずのブランコが一本足りない。噴水の場所も少し斜めに移動している。「気のせいかな、たしかブランコは二つ並んでたはずなんだけど……」私は自問する。


Mはもう言葉も出ない様子だった。ひとつだけ確実なのは、これ以上関われば関わるほど、私たちの住む現実が書き換えられてしまうのではないかという恐怖だ。実際、一晩で公園の景観が変わっているのを目の当たりにした以上、誰にも否定できまい。このまま放っておけば、街全体が見慣れない姿へと変わり果てるのか、それともいずれ私たちの存在さえ消えてしまうのか。それが何者の仕業なのかすらわからない。アルバイトたちは、誰の指令を受け、何のために卒業文集をばらまいているのか。書き換えられた世界はどこへ向かうのか。


そんな混沌の中で、Mは意外にも落ち着いた声を出した。「やっぱり、俺は配信者だから、これを発信するしかないと思うっす。たとえデマ扱いされても、誰かの目に留まれば、あるいは止める方法が見つかるかもしれないし」正直な話、私は止めてほしかったが、彼の眼差しには覚悟が宿っているように見える。私自身も、これ以上街が書き換えられるのを黙って見ているのはつらい。もしかすると、他にも同じ違和感を抱いている人がいるだろう。そうした人々に情報を共有する意味は確かにある。とはいえ、どういう形で広めるのかが問題だ。生放送などで軽々しく披露したら、取り返しのつかないことになるかもしれない。逆に静かに拡散する方法をとっても、アルバイトたちに妨害されるおそれもある。


私は疲労困憊のまま、数時間だけ休むと、その日の夜も街を巡った。すると、驚くべき光景が待っていた。いつもなら夜になれば静まるはずの道が、少なくとも私にはそう見えなくなっていた。そこかしこに、リュックを背負った人影が行き交っている。あれは一人や二人どころじゃない。三十人、四十人、いやもっとだろうか。まるでパレードのように黙々と紙束を落としていくのだ。通行人は少ないが、いても彼らを見て「何か奇妙だ」とは認識していない様子だ。私だけが、その異様さをはっきり感じ取っている。Mも別の場所でこれを見ているかもしれない。鳥肌が立つ。これだけの人数が一斉に行動しているなら、街が書き換わる速度も加速するのではないか。

恐怖に駆られ、私は逃げ出すように家へ帰ることにした。しかし、自宅があるはずの通りに来た瞬間、目を疑った。建物の配置が微妙に違うのだ。いつもは角を曲がったところにコンビニがあるはずなのに、そこにあるのはみすぼらしい骨董品店。「………」私は言葉を失った。記憶がおかしくなったのではない。これは現実が書き換わったのだ。闇雲に通りを探し回るうちに、ようやく自宅らしき建物を見つけたが、表札には私の名前が書いていない。中を確認しても、家具の配置や内装がまるで別物だ。私は戦慄した。この家は、もはや私の家ではないのだ。

辛うじてポケットにあった鍵を試してみると、なぜかドアは開く。部屋の中に人影はなく、家具は完全に見覚えのないもので統一されている。まるで誰か別の人物が住んでいるかのように。「これ、どうすれば……」呆然としていると、リビングのテーブルに、一枚の卒業文集が置かれていた。「わたしが住む場所はここじゃない。いつか本当の場所へ行くんだ」という子供の筆跡。その最後には、「すべてが書き換わり、過去は過去でなくなる」という謎の一文が付け加えられている。ああ、これが現実だ。私は実感した。街が、そして私の家が、私の存在さえも書き換えられようとしているのだろう。心臓が激しく鼓動する。どうすれば元に戻せるのか、もはや手がかりすらない。ここまで踏み込んだ以上、私は“別の世界”へ行かざるを得ないのかもしれない。抗う手段は見つからない。


そうして彷徨い歩くうちに、遠くでカメラを回すMの姿を見かけた。彼は私に気づいて手招きする。駆け寄ろうとするが、私の足は地面に貼りついたかのように重い。目の前の視界がゆがんで、Mの姿がぐらりと歪む。大気が熱を帯び、何か大きなノイズのようなものが耳鳴りとして響いてきた。気を失いそうになった瞬間、私はかろうじて彼の声を捉える。「大丈夫っすか、あとちょっとでこっち来れます?」必死に一歩を踏み出すが、その間にも周囲の建物が変わる。Mの背後の看板が、一瞬で別の文字になったのを目撃してしまう。もはや理屈ではない。もしかすると、私自身がこの世界から消える寸前なのかもしれない。胃がきしむように痛む。ようやく彼のそばまで近づき、腕を掴む。すると、少しだけ意識がはっきりした。彼のカメラに映る私の顔は、青白く歪んでいるように見えたが、それでもまだ存在できている証拠だ。


「何か、元に戻す方法とか、ないっすかね……」彼は首を振る。「さっぱりわからないっす。でも、今の状態じゃ街全体が書き換わるのも時間の問題かと。ヤバいっすよね」私は震える声で呟く。「もし、あのアルバイトたちが街全部の卒業文集を集めきったら、何が起きるんだろう?」Mも視線を落とした。「おそらく、完全に違う街に塗り替えられるんじゃないっすか。そうなったら、俺らの元いた世界はどこにもない、みたいな」その言葉に私は絶望を覚える。されど、何とか踏みとどまり、頭を切り替える。こんな状態でも、まだ歩き回っている人たちがいる。彼らにとっては普通の日常かもしれないが、私にとっては崩壊しつつある世界だ。何も手が打てないまま、ただ流されるのはごめんだ。

ならばどうするか。Mは携帯で何やらメモを確認している。「そういえば、ここの近くの倉庫街に、文集が山積みされてるって噂があったんすよ。俺、仲間からチラッと聞いてて。それ確かめに行ってみません? もしかしたら核心があるかもしれない」正直危険な匂いしかしないが、もうこのまま家に戻れもしない私には選択肢がない。連れ立って倉庫街へ向かうことにした。朝陽はすでに昇り始め、やけに熱を帯びている。倉庫街は普段なら港に近くて賑わいがあるはずだが、今朝は妙に静かだった。入り組んだ通路の先に、古い鉄扉がひとつだけ閉ざされているのを見つけた。鍵がかかっていると思いきや、手をかけたら簡単に開いてしまう。中を覗くと、薄暗い空間に膨大な紙の束が積み上がっている。まるで紙の迷路だ。あれは全部卒業文集なのか。息を呑む。

床は薄っすらと水溜まりのように湿っており、アンモニア臭が漂う。Mがカメラを片手に警戒しながら中へ踏み込む。私も後に続くと、遠くのほうから足音が近づいてきた。慌てて文集の山陰に隠れる。ほどなくしてアルバイト風の男が数名入ってきた。先ほど見た者たちとは別人のようだが、同じリュックを背負っている。彼らは無言で文集を整理し、何やら箱へ詰めている。時折、互いに目を合わせてうなずき合うが、声が聞こえない。完全にサイレントなやりとりだ。数十分ほど経った頃、彼らは箱を抱えて奥の扉へと消えていく。私たちは少し待ってから、奥を覗いてみたが、その扉の先は深い闇が広がっているだけで、階段が下へ続いているように見えた。意を決して足を踏み出そうとしたが、そこから先に進む勇気はなかった。私たちが下手に降りていけば、取り返しのつかない事態に陥るかもしれない。


代わりに、目の前に積まれた文集を手に取る。やはり子供の無邪気な文章が書かれているのに、途中から悪意のある文言へと変わっていく。背筋を凍らせながらページをめくっていると、最後の方に書かれた不可解な言葉が目に止まった。「汝、既に書き換えられし運命を受け入れるべし」「さすれば、新たなる世界へ移行を許可される」まるで儀式の真髄を示すかのようだ。ハッとして顔を上げると、倉庫の天井が緩やかに歪んでいるのを感じる。周囲の紙束もゆっくりと形状が変わり、収まっていたはずの箱が消えたり現れたりしている。まるで私たちがこの場所にいることで、進行を刺激しているかのようだ。「出ましょう。これ、ほんとにヤバい」とMが声を上げる。私も同意し、そっと倉庫を後にする。扉を閉めて鍵をかけようとするが、そもそも錠前がない。ただ開けるも閉めるも自由だ。後ろめたさを感じつつその場を離れ、朝日で白んできた港方面へ駆け込むように逃げた。


もはや私の心は悲鳴をあげている。このままでは確実に世界が完全に塗り替えられるだろう。そして、その後に私たちの居場所など残ってはいまい。そう悟ると、自分の中で諦念に近いものが湧き上がってきた。ふと、Mが意外な言葉を口にする。「もしかして、全部書き換わったあとって、みんな普通に暮らしてるんじゃないっすかね。俺らみたいに違和感を覚える人間だけが苦しむわけで……」確かに、そうかもしれない。このまま全てが新しい設定になりきれば、誰も不思議に思わず、新しい世界で当たり前のように生きていくのだろう。記憶が書き換わる人もいれば、もとより新しい記憶を植えつけられる人もいる。そこに苦しみなど存在しない、ただし私やMといった“中途半端に気づいてしまった”者は別だ。どうしても元の世界を思い出してしまう。といって、抗う力などありはしない。運命は既に書き換えられし運命を受け入れるべし、とあの文集に書いてあったではないか。くそ、と私は叫ぶ。まるで自分だけが取り残されている気分だ。


夜が明けきり、港の倉庫街は妙に明るい陽射しに照らされている。しかし、細部がやはり違う。漁船の名前がすべて、読めない文字に変わっている。漁師らしき人たちは普通に談笑しているが、その言語がどこか耳慣れない響きに思える。私はこれ以上、どうすることもできないまま、ただMと視線を交わし合う。彼は小さくうなずき、「ちょっと配信は、もう無理ですね。映像が撮れても、俺ら自身が言葉を失うかも」と肩をすくめる。朝日の中、私たちはゆっくりとこの港を離れることにした。それが逃げなのはわかっている。けれど、これ以上立ち向かえば、いずれ私たち自身までアルバイトにされてしまうかもしれない。卒業文集をばらまき、拾い集め、世界を塗り替える一員に。


街外れへ向かう道路を進むと、道端にまた文集の切れ端が落ちている。ふと手に取ると、「あなたはもう新しい世界の住人だ」と走り書きされていた。気味が悪いほど的確な言葉に、私は絶句する。確かに、周囲は既に私の知っている冥ヶ崎市ではないのだろう。だが、もうどこへ行けばいいのかもわからない。どこまでが書き換えられ、どこまでが自分の知っている現実なのか。道が次第に霞んで見える。Mも苦い表情をしている。何か言葉を発しようとするが、それが声になる前に、彼の姿が少しだけ透けて見えたような気がした。


私は必死に目を凝らし、Mの肩を掴む。「大丈夫ですか?」彼はぎこちなく笑おうとしたが、その笑みが歪み、映像のノイズみたいにバチバチと乱れた。次の瞬間、また正常に戻ったが、彼の顔は青ざめ、呼吸が荒い。どうやら限界が近いらしい。この街を離れれば、あるいは書き換えの影響が少なくなるのかもしれない。けれど、本当に外へ出られる保証はない。もしかすると既に街全体を覆う結界のようなものがあり、私たちはその中を堂々巡りしているだけかも。そう思うと、足が震えて止まらない。


「行きましょう。少なくとも、これ以上ここにとどまったら、俺たちまで書き換えられちまう」とMが少し絶望的なトーンで言う。その言葉に頷くしかない。私はなるべく冷静を装い、街外れ方面へと歩き出す。少しでも遠くへ行けば、別のエリアに到達するかもしれない。高速道路のインターチェンジまで行けば抜けられるかもしれない。一縷の望みにすがりながら、その場を立ち去った。あの夜から、どれほど時間が経ったのか。数日?数週間?それすら曖昧になりつつある。いつの間にか私たちは無我夢中で歩き続け、疲れてどこかで休み、また歩いている。街並みは見覚えのあるような、ないような混然とした風景の連続だ。コンビニに入ろうとしても、「ここは最初から倉庫です」と店員に言われる始末。時間や空間の感覚が崩壊しかけている。


やがて私たちは完全に力尽き、人気のない空き地で座りこんだ。その先にはさびれたバス停があり、時刻表にはまるで古代文字のような記号が並んでいる。Mはもう声を出さなくなったが、視線だけで訴えてくる。「もう無理だ」と。私も膝を抱え、あの青年たちの無表情が脳裏に焼き付いて離れない。遠くで、シャーという風の音がする。それは潮騒にも似ているし、あるいは世界そのものが揺らぐ音かもしれない。足もとを見ると、踏みつけられた卒業文集の一部が散っている。「ぼくは、もっと自由になりたいんだ」と、子供のような文字が書かれていて、その文字の端に小さく「これがあなたの街だよ」と付記があった。まるで、私たちにとっての現実など最初からこの程度のものだと言わんばかりに。


いつの間にか空が明るむ。私はうとうとと眠りかけ、ハッと意識を取り戻した。隣を見れば、Mの姿はない。まさか書き換えられたのかと焦るが、代わりに見覚えのない白い封筒が置いてある。封筒には私の名前が書かれているのに、中を開けると真っ白な紙が一枚だけ入っている。何も書かれていない。それが「何もかも消えた」ことを意味するようで、背筋が凍る。呼びかけてもMの返事はない。私は、そうか、彼はもうこの世界にはいないのだと悟った。思い出そうとしても、だんだん彼の顔がぼやけていく。この世界では、彼が存在しなかったことになっているのだろう。そんな理不尽が当たり前にまかり通るほど、世界は書き換えを完了しつつあるようだ。


私は、もはや何もできず、ただ座り込む。遠くから、卒業文集を抱えたアルバイトたちが歩いてくるのが見える。黙々と、書き換えを続けるために。私がそれを止めようと立ち上がる気力も残っていない。いずれ私自身も、この世界から忘れ去られるのだろう。そう思った瞬間、ふと子供のころの夢を思い出した。あのゲームクリエイターになりたいとか、大きい船で航海したいとか、そういう些細な願望。いつの間に捨て去ってしまったのだろうか。そして今、私が目の当たりにしているこの現実も、誰かにとっては簡単に捨て去られる書き換え対象なのかもしれない。そう考えると、妙に納得してしまう自分がいる。

一冊の文集が足もとに滑り込んできた。拾い上げると、表紙に「あなたは別の世界で夢を叶えたかもしれない」と書かれている。これは私のためのメッセージなのだろうか。もしそうなら、私はもう何も言い返せない。遠くでアルバイトたちの歩調が近づく中、私はそっと目を閉じた。世界が書き換わるならば、その書き換え後の私など、もはや別人に等しいのだろう。かすかな寂しさの中、すべてが薄れていくように感じる。私は最後の意地で、自分がいた世界を思い出そうとする。Mの顔、彼の声。だが、それらはふわりと泡が弾けるように消えてしまう。誰もいない空地で、私は一人しゃがみ込んでいる。まるで最初から、何も存在しなかったかのように。


朝日が完全に昇り、街を照らす。通りには平凡そうな人々が行き交い、ただの日常を営んでいる。どこかの工事現場が動き始め、大きな音が響く。この街はもう、私が知っていたものとは違うのだろう。ビルの看板はカタカナか異形の文字か、よくわからない文様に変わり、当たり前のように人々がそれを読み慣れている。私は何もかもに取り残され、ただ立ち尽くす。遠く、Mが笑う声が聞こえた気がしたが、振り返ってもそこには誰もいない。私は、先ほど封筒に入っていた白紙を握りしめる。ほんの少しだけ光を反射するその紙には、本来文字があったのかもしれない。だが今となっては確かめようもない。私が知っていた“あの街”は、完全に姿を消してしまったから。もしかすると、誰かの手によって新しい世界が塗られ、別の姿で生き続けているのかもしれない。だが、それは私の望んだことではない。得体の知れない虚しさに包まれながら、私はそっと目を伏せた。書き換えられた世界の片隅で、もう存在しないものを思う以外に、私にできることは何もなかった。

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