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【奇妙な日常】深夜の居酒屋にて、2人のITエンジニア

しょうやはコップを傾けながら、まぶたを半分だけ開けていた。いつもの筋トレのあとらしく、腕は微妙に震えているが、顔にはどこか楽しげな笑みを湛えている。彼は居酒屋のざわめきに耳を澄ましながら、自分のスマホに走る光を何度も見返していた。机の下には鞄が置かれ、そこから覗くのは奥行き不明のコードやらメモ書きやら。何かのアプリを立ち上げては消し、呟くように「やっぱり無反応か…」とつぶやく。周囲には誰もその言葉の意味がわからない。しょうやは黙り込む。

奥の席では、こげまるが酔いつぶれたように突っ伏している。丸メガネの奥の瞳は眠りかけているのか起きているのか不明瞭だ。無精ひげの先にビールの泡がわずかに残っている。いつもは「仕事が忙しい」などと適当に言い訳して座り込む彼だが、この日はやけに静かだ。机にバサッと置かれたカメラが小刻みに揺れている。まるで中に何かがうごめいているようにも見える。誰も言及しないが、こげまるは決してカメラのレンズを拭かない。汚れたフィルター越しに見た景色が、本来のものより鮮明に映るのだ、と本人は言い切っている。

しょうやは、こげまるが並々と注いだビールを指先でぐるぐる回転させるのを横目で見ていた。ふと、彼は小声で「オカルトってのは、意外と隣にあるもんですよ」と言う。こげまるは返事をしない。居酒屋の店員が箸を置きに来たが、こげまるの横に置かれた一皿だけがほぼ手つかずだ。まるで、最初から食べる気がなかったかのように。

店の壁には小さなテレビが設置されていて、地震速報か何かのテロップが流れた。音が聞こえづらいほどの雑多な会話。揚げ物の匂いとアルコールの熱気があたりに充満している。しょうやは一瞬、テレビを振り返り、画面に映る冥ヶ崎の地図を見つめた。画面は数秒で切り替わり、すぐに別のCMへ移った。もう一度戻してくれと思ったが、誰もリモコンの在りかを知らない。

かたわらではこげまるが寝ているのか起きているのか、薄目をあけて唸っている。彼はITエンジニアと言っていたが、本当に仕事をしているところを見た者はいない。定時になれば適当に書類をまとめ、あとは本やカメラを弄んでいるらしい、と噂されている。しょうやは今や同僚でもある彼の怪しげな仕事ぶりを面白がっているようだ。

「今日、ちょっと変な話を聞いたんですよ」としょうやが急に言った。こげまるは耳だけが動いたように見える。それを確認したしょうやは続ける。「今朝、会社でネットワークが一瞬だけ全部落ちたんです。原因を調べたら誰かがサーバルームにこっそり入り、変なデータを読み取ろうとしてたみたいで。でもログには僕の名前が残ってたんです。僕はやってないのに」

こげまるの指が微かに蠢く。寝言か何かで笑った気がするが、言葉としてはっきりしない。しょうやは続ける。「ログイン時刻は、俺がコンビニでおにぎり買ってた時刻なんですよ。カメラには俺は映ってない。でも、ログには俺。どういうことなんでしょうね」

店内の照明が軽く明滅した。故障ではなく誰かがスイッチを弄ったのかもしれないが、誰も気に留めず会話が続く。隣のテーブルの客が大笑いして箸を落とし、店の奥では携帯がやたらと鳴っている。そんなざわつきの中で、しょうやはさらに低い声で言った。「先週、俺が開発中のアプリで奇怪な通信ログを見つけたんですよ。なんか、脈絡のない羅列。しかも、社内LANから外部に流れてて、宛先がどこにも存在しないIPアドレスだった。俺の端末が勝手に送り出してる形跡があって。消そうとしたら全部ハングしちゃった」

こげまるはビールを手探りで探し、ぐっと呷る。彼の喉が鳴る音が、この狭い空間に不釣り合いな大きさで響いた。しょうやは「あれ、今のどうなってるんですかね」と言いかけたところで、斜め後ろの席に気づく。そこには妙に暗い顔の客がいて、ずっとこちらを見つめている。しょうやが視線を送ると、その客は慌てて目をそらし、まるで盗み聞きしていたのを誤魔化すように俯いた。

「なんか、気味悪くないですか」としょうやが声を潜める。こげまるは口を開く。低く、酒やけした声だった。「……いらんものを探ると、ろくな目にあわないぞ」そう言い終わると、こげまるはカメラのレンズをぺたりと触り、ビールジョッキを指先で叩いた。カン、と耳障りな金属音のような音がした。グラスと指先の音にしては不自然だ。しょうやはそれを聞きとがめて、ひとつ眉をひそめる。

突如として、店の入り口から強い風が吹き込んだ。どうやら誰かが自動ドアを一気に押し開けたらしい。店員が「いらっしゃいませー」と言う声の中、その姿は妙にぼんやりとしていて、誰が入ってきたのか判別しにくい。風が止んで、照明が一瞬だけ点滅する。しょうやは「またか」という顔をして、深く息をついた。その瞬間、彼のスマホが震え、画面が急に真っ白になった。何もタッチしてないのに画面が動いている。「勝手に何か入力されてる…?」しょうやは呟くが、何の文字も浮かばない。白い画面がじわじわ暗転し、やがて画面が消える。

こげまるが、その様子を横目で眺める。彼の唇は微かに笑っているようだ。まるで「知ってるぞ」と言いたげな、意地悪い笑みだ。しょうやは聞きたくても、どこかためらいがあって聞けない。「何か知ってるんですか」と問いかけても、こげまるはどうせ答えないだろう。居酒屋の喧騒が一段上がったとき、こげまるは椅子からゆっくり立ち上がる。カメラを掴む手が微かに震えている。「そろそろ行くか」と言うが、勘定は払っていない。しょうやが「ちょ、何してんすか」と制止しようとしたら、こげまるはすでに入り口付近にいた。誰にも見えない速さで移動したように思える。

しょうやは諦めたようにため息をつき、スマホを再起動しようとする。けれどもまるで電源が落ちた形跡もなく、ただ画面がうつろに暗いままだ。動かない。何かが背後でクスクスと笑っているような気がして、振り返るが、そこには空の席と散らかった皿だけがある。店員は「お会計どうされますか?」と声をかけるが、しょうやは苦笑して財布を出した。こげまるのジョッキや料理のぶんも含めて清算し、何とも言えない気分でレジへと向かう。

扉を開けると夜風が吹き、街灯がまばらな通りが見える。さっき入ってきた謎の人影はもう消えている。しょうやは足を踏み出すが、一歩前に進んだはずなのに、自分の視界が一瞬だけ半歩後ろへ戻ったように感じた。視界の端に何か黒い影がうろついている。けれども、それが何なのかは分からない。しょうやは妙に不安になり、空を見上げる。星が見えない。月も見えない。ただ暗い雲の筋があるだけだ。

こげまるの姿は、どこにもない。しょうやは一人で歩き出し、コンビニの前を通りかかる。ドアガラスには自分の姿が映っている。が、それが急に歪んだ気がして、思わず立ち止まる。誰かが映り込んでいるわけでもない。ただ歪んでいる。どうにか気を取り直して店の中を覗くと、店員が奥の在庫を確認している。誰もしょうやに気づかない。

夜の街を、しょうやの足音が吸い込まれるように遠ざかっていく。遠くで飲み屋の看板がちらつき、誰かが笑う声が聞こえた。こげまるはもういない。スマホは沈黙している。何が起きているのか、しょうやにはわからない。でも次にこげまると会ったら、必ず何かを問いただそう。そう思う矢先、スマホがブルッと震え、画面がうっすらと光った。何かの通知。だが読める文字など一切なく、ただ変な記号が並んでいる。

しょうやは急に背中を冷たい汗が流れるのを感じた。次の瞬間、街灯が一列同時に消えたように暗くなる。その中にゆらりと人影が浮かびそうで、しょうやは思わず走り出す。ひたすら走る。その先には何も確かなものがないように見えても、足を止めればそこに得体の知れないものが来る気がしたからだ。

やがて足がもつれ、立ち止まったときに、スマホの画面は何事もなかったように再び暗転していた。しょうやは黙って、そして苦い笑いを漏らしながら呟く。「なんなんだよ、マジで…」通りには風が吹き抜けるだけだ。彼の胸にひっかかるのは、あの居酒屋でこげまるが見せた微笑み。そしてカメラの中にある、いまだ誰にも見せない写真の数々。しょうやは喉を鳴らして唾を飲みこむ。今夜の出来事は、単なる錯覚なのだろうか。それとも、すべて始まりにすぎないのか。彼はもう一度夜空を仰ぐが、やはり星も月も見えなかった。

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