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【奇妙な日常】誰も気づけぬ喪失の儀式

そろそろ夏も終わりを告げる頃の朧区では、夜になれば霧が濃く立ちこめ、夜道を行き交う人影もかすんで見えるときがある。 その霧の奥には得体の知れぬものが潜んでいる――子供じみた噂を大人たちは鼻で笑うが、ごく稀に、その噂が現実味を帯びる瞬間があるという。

たとえば、ある夕暮れどき。
凛が細い山道を下りてきたときにも、そんな霧が漂っていた。
彼女は霞丘区に住む主婦で、手にはエステ関連のカタログを持っていて、朧区の山間でちょっとした友人との施術相談をしていた帰りだったらしい。
しかし帰路を急ぐうちに妙な道に迷い込んだ。
曲がりくねった山道の先に、古ぼけた灯籠らしきものが見え、そこだけ淡く光っていた。
地図にない小道に足を踏み入れてしまったようで、彼女は引き返すべきか躊躇したが、やがて道端にうっすらと浮かぶ鳥居が見えたため、山の社か何かかもしれないと一歩踏み出した。
朧区には昔からの神社が点在しているし、凛も過去に何度か山の結界話を耳にしたことがある。
だからあまり警戒もせず、そのまま進んでしまったのだという。

その鳥居をくぐった先、急に空気が張り詰めるように感じた。
霧がやけに重く、まるで体に絡みつくようだったと、後に凛は語った。
そして、ふと視界の先に、なぜか結婚式の装飾のようなものが見えたのだという。
いや、厳密には装飾品というより、床に延びた白いレースや花束のようなものがひっそりと置かれていた。
古びた神社の境内とは似つかわしくない、ウエディングを連想させる純白のアイテム。
不思議に思って近づいてみると、それは確かに生花のブーケと長いベールのようだった。
なぜこんな山奥に――そう感じたところで、霧の中に人影がかすかに映り込んだ。

朧区の山中では、霧の夜に不思議な行いがあるという噂が絶えない。
だが凛は人見知りこそしないものの、こういう霧深い場所で誰かと鉢合わせるのは少し気が進まなかった。
ゆっくりと視線を上げると、そこにどこか見覚えのある男の姿があった。
久我守泰という神主だ。朧区の八重垣神社に勤める古老で、いつも境内の巡視をしているという噂の人物。
しかしここは八重垣神社でも何でもない、ましてや夕闇が迫る不気味な場所。
なぜ彼がここにいるのか、凛にはさっぱりわからなかった。
久我は何も言わずにすっと一礼だけし、ベールと花束をそっと拾い上げると、どこかへ運んでいったらしい。
問いかけようにも声が出なかったと凛は回想している。
なぜなら、その白いベールの先から、奇妙に変色した指輪がちらりと覗いていたから。

だが、このときの凛は、その程度の怪異で済んだ。
違和感を抱きつつも、急いで山道を離れ、霞丘区へ戻ったのだという。
「なんだったんだろう」と思いながらも、家に着くころには夫の夕食準備の時間が迫っており、それにかまけて忙しくしているうちに、その不思議な光景の印象は少しずつ薄れた。
だが、朧区の山道で“ウエディング”らしき何かを見たという目撃談は、実は凛以外にも幾つか寄せられている。
たいていは遠目にぼんやり見ただけで、すぐに立ち去るか、あるいは霧のせいで場所がわからなくなるのが通例だった。
そのため、真相を深く追った者はほとんどいない。
凛自身も特段の恐怖体験とは思わなかったようで、友人に軽く話す程度に留めていた。

しかし、その“山のブーケ”現象が“冥婚の逆”と称される儀式と地続きになっていると知ったのは、ずっと後になってからだったという。
一方、朧区の山里にはれなというカフェオーナーがいて、夜にひっそりと客を迎える姿がしばしば見かけられる。
れなは若い女性ながらカフェを営むしっとりした雰囲気の人物で、その店で偶然にも、別の客から“冥婚の逆”という言葉をちらりと耳にしていたらしい。
本来の冥婚は、故人同士の婚姻を取り持つ儀式――つまり死者と死者を結ぶものだが、逆とは何なのか。
れなが客から小耳に挟んだのは「生者のほうが、亡者との縁を強制的に解体する」というかたちだと。
しかし詳しい情報はなく、それ以上を尋ねても客は「自分も聞きかじっただけだから」と笑っていたという。

そんな朧区にはまた、地元の老人たちから“あり得ない婚礼”の怪談が語り継がれている。
夜遅く山を下りてきた人の前に、突然式場めいた飾りがあって、だれもいないのに祝福の音が響き、気づけば自分のポケットに破れた婚姻届が入っていた――等々。
どれも半信半疑な内容だ。
だが、その怪談の多くが「生きているはずの誰かと、すでに死んでいるはずの誰かとの縁を断つ儀式」を暗示しているように思われる。
そういえば、れながカフェを閉めた夜更け、山道で小雨という図書館司書が、霧にまぎれて通りすがったという話もある。
小雨は夜の散歩が好きで、時折この山間の道まで足を伸ばすとか。
だが、その夜、小雨は視界の端にオーガンジーのような布が棚引いているのを見て、何か怖くなり引き返したそうだ。
あとになって聞いた噂が、やはり“冥婚の逆”らしいと。
しかし小雨も「図書館で調べてもそういう具体的な記録は全くない」と言って首をかしげる。

実際に儀式を見た、と公言する者は稀だが、山道の奥にある空き地で「祭壇のようなものと、くたびれた白いドレスが吊るされていたのを見つけた」という投稿が某ネット掲示板にあがったことはある。
ただ、その投稿者は、翌日には「あれは嘘でした」と謝罪スレを立てており、真偽は謎のまま。
都市伝説の色合いがますます濃くなる中、ほんのわずかな事実だけが断片的に語り継がれている。
例えば、朧区の祭祀を掌る久我守泰が、霧深い夜に名もなき布切れを丁寧に抱えていたとか、れなが朝、自分のカフェ前で枯れた花束を見つけたとか、そういう“ほんの小さな不気味”が積み重なっている。
肝心の儀式の実態は誰も確かめたわけではないし、そもそもこの“冥婚の逆”なるものが本当に存在するかどうかもはっきりしない。

では、冥婚の逆の結果は何をもたらすのか。
一部にこんな説がある。
「亡者とつながり続けた生者が、その重荷を下ろすために行う儀式で、成就すれば、生者の心は完全に解放されるらしい。
しかし代わりに、亡者の記憶や存在を現世から抹消してしまう可能性がある。
つまり、生者が“死者なんて最初からいなかった”と無意識に思い込む状態が生じる」
それがよけいに不気味な結末を招く。
死者への思い出を封じ切るゆえに、一見苦しみから解放されたようでいて、本当に良いことなのかどうかは甚だ疑問が残る。
友人や家族が「そんな人いなかったよ」と口を揃えて言い出し、過去の写真や書類がいつの間にか消える――本当によくある“冥婚の逆”の後始末だ、と噂する人がいる。
果たしてそれは救いか、あるいはもう一つの呪いか。

昼間の朧区は、霧も晴れて穏やかな山の景色が広がる。
観光客も少しは足を伸ばし、山道をハイキングする姿も見える。
けれど、夜の帳が降りると、闇と霧が重なってか、どこか遠くから篠笛のような音が聞こえたり、聞こえなかったり。
あれはどこかの神社の祭事なのか、それとも誰かが不気味な婚礼のようなことを企んでいるのか。
誰も確かめようとしないし、そもそも近づけば山道で迷ってしまうかもしれない。
葬式ではない、結婚式でもない、ただ何かを断ち切るための祝福にも似た行為――そんな形容しがたい儀式が深夜に執り行われているらしい。
実際に足を踏み入れた者は少ないが、朧区に住む人々の一部は、それを当たり前のように受け止めている節がある。
「ここでは、そういうこともある」と。

れなはその噂に対して特別な興味を抱いたらしく、一度だけ霧の深夜に店を閉めた後、山道を歩いてみようかと思ったそうだが、「万が一儀式に巻き込まれたら困る」と考えをあっさり撤回した。
彼女に言わせれば、もし見かけても“気づかなかったフリ”をするに限るのだという。
なぜなら、この儀式にかかわると、その後、自分の生活のどこかで大切な記憶が失われてしまうかもしれない、と感じたから。
実際にカフェの常連客の中に、何かを忘れたかのようにぼんやりしている人がちらほら見られるようになり、れなの胸に妙な不安が芽生えたという。
「冥婚の逆」をした後遺症なのかどうか、真相はわからない。

一方で、八重垣神社の久我は、この奇妙な婚礼について、ほんの少しだけ知っているのではと囁かれている。
だが彼に直接問うた者は誰もいない。
久我は何も語らず、ただいつものように境内や山道を巡回しているだけ。
彼が夜に持ち歩く細長い布切れや、枯れた花束のようなものが一体何なのか、誰も問いただそうとしないので、謎は謎のまま。この街では、それが自然なことだからだ。

もっとはっきりした証拠を探そうと、小雨という図書館司書が山間に関する古文書を調べてみたらしい。
けれども古い資料には「冥婚」と呼ばれる風習の断片が出てくるだけで、「逆」については言及が見当たらない。
おそらく闇に葬られた、あるいは禁忌とされているのだろうと、小雨は推測する。
彼女は霧の夜をこっそり探検してみようかと思ったこともあるが、職場での責務や、図書館での忙しさにかまけて結局は実行しなかった。

そして、この儀式に関する噂はときどき熱を帯びては、すぐに忘れ去られるかのように沈静化する。
そう、まるで何かに触れて記憶が飛んでしまうかのように、人々の間から話題が消えていく。
数日経てば、また別の誰かが山道で見たブーケの話をし、あるいは夜に響く祝福の鐘が聞こえたという書き込みがネット掲示板にぽつりと投稿されるが、その投稿者も数日後には削除依頼を出したりして、痕跡が薄れてしまう。
その繰り返しが、朧区の日常には微かな痛みのように寄り添っている。

いったい、この“冥婚の逆”は何をもたらそうとしているのか。
死者への未練を打ち砕くためのものか、それとも死者そのものを塗りつぶすための行為なのか。
誰も本当のことを語らないし、語ろうとしない。
凛も、あの夕闇の山道で見た花嫁ベールの光景を詳しく話したのは一度きりで、それ以降は口にしなくなった。
れなは遠くから見守るだけで、深入りはしない。
小雨は調べてもわからないことだらけで、深追いをする気配はない。
久我はすべてを知っているかもしれないが、やはり沈黙を貫く。

結局、この儀式が実在するかどうかすら判然としないまま、朧区の暮らしは続いていく。
ある霧深い夜、運悪くその場に通りかかった人が謎の婚礼具を目撃し、得体の知れない気配に足がすくむ。
そして翌日、その人はなぜだか大切だったはずの誰かを――もしかすると家族や友人かもしれない――すっかり思い出せなくなっている。
その記憶の喪失を気にも留めずに、まるで最初から存在しなかったかのように振る舞う。
そうして街のどこかから一つの記憶がまた消えた。
葬式でもなければ結婚式でもない“逆の儀式”は、今日もひっそりと霧に溶け込み、誰も気づかないうちに終わっているのかもしれない。

深夜、朧区の山から鐘が微かに鳴り渡る。
いつ鳴り始めたのかはわからないが、気づけば耳の奥に染み渡るような低い音だ。
誰もが薄ら寒い気配を感じて家に閉じこもるけれど、誰も外に出て確かめようとはしない。
もし外に出れば、山道の奥にぽっかり浮かぶ幻の祭壇を見てしまうのかもしれない。
そこには花嫁どころか、人影一つないのに、白いドレスと枯れた花束だけが月明かりに照らされて揺れている。
そして――その光景を目撃した人は翌朝、“本来いるはずの誰か”を忘れているだろう。
そうして、記憶と存在を奪いながらも、街はまた穏やかな日常を装い続ける。
いずれはあなたも、そんな奇妙な儀式をこの朧区で偶然に目撃してしまうかもしれないし、そのときは失ったはずの大切な誰かについて「最初から知らない」と感じるようになるのかもしれない。
けれど、そのとき、あなたはまだ自分が何を忘れたのかさえ気づかない――これが“冥婚の逆”に選ばれた者の運命なのだから。

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