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【奇妙な日常】歪んだ音色と霧の市

しょうやは霧の朝に筋トレを済ませたあと、何気なくSNSを眺めながら「冥ヶ崎観光協会主催のフリーマーケット」の告知を見つけた。会場は霞丘区の広場に設営されるらしく、出店者も一般人や地元ショップが入り乱れるらしい。ワクワクしながら現地に向かうと、れいがすでに古書コーナーで価値不明の民俗資料をじっくり眺めているところだった。霧の中でも汗ひとつかかず、まるで何かを調査中の探偵みたいに背筋を伸ばしている。

「これ、霞丘の霧伝説を扱ってるらしいよ。まだ読んだことない?」とれいは尋ねる。しょうやは筋トレまみれの頭で「いや初耳、でもITエンジニア的に調べてみるのも面白そう」とはしゃいだ。そんな2人の後ろで、凜が丁寧なエプロン姿でネイルの小物や手作りアクセサリーを広げているのが目に入る。主婦だけど器用な凜は、夫に内緒で小さなプチサロンをフリーマーケットでお試し出店中らしい。

思い思いの時間が流れるなか、しょうやはふと金属製の古いオルゴールを手に取った。売り主は姿を見せず、値札だけが貼られ、妙に低い価格設定になっている。試しに回してみると、耳障りなほどに鋭いメロディが霞丘区の朝の霧を裂くように響いた。そして奇妙なことに、回していないのにオルゴールはまだ回り続け、音階が歪むかのように伸びていく。れいが困惑し、凜も「あれ? どうしたの?」と近寄ってきたところで、観光協会のスタッフが「お客様、音が大きい商品は…」と苦笑を浮かべ、そっと手を伸ばしてオルゴールの蓋を閉じようとした。

ところが、蓋が閉まらない。開いたまま、まるで見えない力が抑えているかのように停止しないのだ。しょうやは焦りつつも筋力を発揮しようとするが、なんとも滑稽なほどビクともしない。一瞬だけれいと目が合い、「また何か街の不思議な力に引っかかったんだろうか」とアイコンタクトで確信した。凜は周りの客に迷惑にならないよう、静かに周囲を誘導して離れさせようと気を回す。

そのとき、スタッフが背後から奥の事務テントに呼びかけ、「すみません、手伝ってもらえますか」と声をかけた。誰かが軽い足取りで近づくと、オルゴールは突如パチンと蓋を閉じて沈黙した。唖然とするしょうやたちに、スタッフは平然と「本日のお買い物の中止をおすすめします」とだけ言って、そのまま笑顔で場を収める。まるで観光客向けに用意されたマニュアル対応かのように。

フリーマーケット会場は再び賑やかに戻ったが、しょうやの手の中には消えたはずのオルゴールがいつの間にか置かれているのか、いないのか。まじまじと掌を見ても何も感じない。れいは手に入れた資料をこっそり翻訳アプリで読み始め、凜は自身のアクセサリーやネイルセットを片付けつつ「ここの雰囲気はちょっと違うかも…」とつぶやく。少し離れたところでは、観光協会のスタッフがほかの来場者に朗らかに声をかけている。

何事もなかったかのように見えるが、しょうやは胸に引っかかるものを覚えていた。一度だけ聞いたあの歪んだ音階が、耳の奥にこびりついて離れないのだ。そういえば誰があのオルゴールを持ってきたのか、最後までわからなかった。凜が気遣う表情で「もう帰る?」と声をかけたが、しょうやは「あと少しだけ見て回る」と答えた。れいも彼の表情を読み取り、「変な磁場でもあるのかな。後で調べてみたいな」とあくまで楽しそうに話す。自分たちは少なくとも、この街が起こす不可解な響きへ、また一歩踏み込んでしまったらしい。そんな予感だけが、3人の周囲にじんわりと滲んでいた。

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