「今日は本当にいい天気だね。やっぱり霞丘の青空は特別だわ。」
りみは、街の中心にある駅前広場で大きく伸びをしながら言った。どこから見ても人懐っこく朗らかな笑顔。彼女は観光ガイドとしての仕事がオフの日でも、明るさは変わらない。
「……ああ、そうだね。こんな日は植物たちも日差しを喜ぶ。俺にはちょっと眩しすぎるけど。」
佐藤はベンチに腰を下ろし、帽子のつばを少し深めに被ってぼそりと応じる。彼のかたわらには見慣れぬ小さな苗のポットがいくつも置かれていた。虫除けの網を被せてはいるが、日に当たって葉の緑がどこか元気そうに揺れている。
りみがその苗を覗きこむ。「珍しい葉っぱだね。何を育ててるの?」
「知らない方がいい。ここに植えるには面倒な手続きがあるし、どうせ誰も興味ないんだ。」
「そんなこと言わないでよ、興味あるよ!」
りみは笑いながら佐藤の膝を軽く叩くが、彼は気恥ずかしそうに顔をそむける。傍目にはすれ違いのようだが、りみはもう慣れているらしく、あまり突っ込まず黙って見守る。
すると、軽い足音を立てて、碧奇 露(あおき つゆ)が二人のもとに歩み寄ってきた。薄い色合いのシャツに落ち着いたジーンズを合わせた、飄々とした装いが印象的だ。まるで霧に紛れるかのような存在感のなさ。
「二人とも、ここにいたんだ。探したよ。駅前がこんなに混んでるとは思わなかった。」
碧奇 露はいつもながら表情が淡く笑う。りみが手を振って「あ、つゆさん、お疲れさま!」と声をかける。佐藤はきまり悪そうに「……やあ」とだけ呟く。
「どうしたの?」とりみが首をかしげると、碧奇 露はカバンから小さなノートを出して開きながら答えた。
「最近、板木(いたぎ)地区の噂、広がってるみたい。ほら、霞丘の裏手にある古い集落ね。ここ数日で変な話が増えてきたって、民俗調査の関係者から連絡があったの。」
佐藤は聞き慣れた地名に少し顔をしかめる。「板木地区……あそこ、以前俺が植物採取に行ったら、道に迷って変な廃屋に突き当たったことがある。嫌な気配だったな。」
「え、どんな噂なの?」りみは好奇心がくすぐられたようで、佐藤と違って目を輝かせる。
碧奇 露はノートをペラペラめくり、指先で一段書き込まれた行をなぞる。
「例えば、集落の古い井戸の近くで人影を見たとか、夜になると集落の外れで誰かが歌を歌ってるとか。しかも姿は誰にも確認できない。ここに住む高齢者いわく“あれはずっと昔からある怨念が板木に戻ってきた”って……」
「な、怨念って……」りみがあきれたように声を上げる。だが一方で、観光ガイドとしてスリリングなネタだとも感じているのか、頬がほんのり紅潮していた。「ツアーに生かせるかも……なんて考えちゃいけないかな」
佐藤はその様子を見て小さく鼻を鳴らしつつ、「どうせ大げさな怪談話さ」と卑屈な調子で言う。しかし、碧奇 露は真剣に続ける。
「あと、まるで敷地に入ろうとすると誰かに引き留められる感覚があるとか、道端に見慣れないお札が貼られていたり。小さい怪談が積もって、じわじわ大きくなってきてる気配。」
りみは背筋を伸ばした。「なんかワクワクする! でも、実際危ない可能性あるよね……」
「……行ってみる?」碧奇 露が遠慮がちに提案すると、佐藤は露骨に顔をしかめ、「俺はごめんだ。板木は霧が深いし、第一、動物だって出る」と呟く。
「動物好きな人が何言ってんの?」りみが笑いながら突っ込むと、「そ、そこは関係ないだろ」と佐藤はさらに不機嫌そうにうつむいた。
そこで、碧奇 露はにやりと笑みを浮かべる。「心配しないで、私も無謀な突撃はする気ないわ。ちょっと話を聞きたかっただけ。もし本当に板木で何か起きてるなら、朧山衆や地元の人がもう動いてるかもしれないし。」
彼女がそう言うと、佐藤はほっとした表情を浮かべる。どうやら内心、興味がないわけではないが、不気味な話にはあまり巻き込まれたくないらしい。りみは楽しげに「また何かわかったら教えてよ、つゆさん!」と声を弾ませる。
そんなやり取りをしていると、近くの公園の噴水が噴き上げる音が高く響いた。霧が晴れかかった夕刻の霞丘区は、子どもがボール遊びする姿やジョギングする人で賑わっている。
「……この平和な景色があるのに、板木はどうしていつも話題が陰鬱なんだろうね」とりみがぽつりと呟く。
「土地の因縁や信仰が絡むと、往々にしてそういう怪談が生まれるものさ」と碧奇 露が淡々と返す。「真偽はわからないけれど、慣例とか昔話とかが積み重なってできるんでしょう。」
「それなら良いけど……」りみは少し考え込むような顔で地面を見つめる。
「ま、どうせ行くなら勝手に盛り上がってこいよ。俺は行かないけど……」と佐藤。
「ふふ、佐藤さんって本当はどこか行きたいでしょ? 動物が出そうな場所でもあるし。」
「べ、別に……」佐藤は顔をそむけ、りみの茶化すような視線から逃げるように視線を落とす。
周囲はちょっとした笑いに包まれ、何とも言えない和やかな空気が戻る。
「ところで、りみさんは明日ツアーでしょ? 何か変わったスポット増えたの?」碧奇 露が唐突に尋ねる。
「うん、最近は周辺の小さな古道をコースに加えたら好評なの。怖がりながらも皆楽しんでくれるし、やっぱり霧ってちょっとしたスパイスになるよね。」
りみはそう言いつつ、板木方面の話題を思い出して一瞬不安げな表情を見せたが、すぐに笑顔で「ま、霧に呑まれないよう頑張る!」と明るく言ってみせる。
「無理するなよ……」と佐藤が小声で付け足すが、その言葉は思ったより優しい響きだった。
そして碧奇 露はノートをぱたんと閉じ、「二人ともありがとう。じゃあ、板木の噂についてはまた何かあったら教えるね。私も取材モードに突入するときがあるし、その時は手伝ってもらえると助かる。」
「わかった! 何かあれば私も一緒に盛り上げるし、怖いなら佐藤君に……ね?」りみがそう言って、にっと笑う。
「……俺に期待すんなよ……」佐藤はうんざりした顔をしながら、その実まんざらでもない様子だ。葉の茂った苗を雑に抱えて立ち上がると、「そろそろ帰る。植物が萎れると困るからな」とぽそりと告げる。
「じゃあ私も、一旦お客さんからの問い合わせメールがあるから帰るね。つゆさんも今日はありがとう。」りみは軽く手を振って、自分の自転車のほうへ歩いていく。
碧奇 露も「そうね、私も宿題が残ってるから」と小さく微笑む。三人はそれぞれの方向へ歩き出した。
駅前広場の噴水が夕陽を浴びて赤く染まり、ほんの少しの霧の名残が街路樹の根元に淡く立ちこめている。
彼らはそれぞれに板木(いたぎ)の不穏な噂を頭の片隅に留めながら、それでも日常の務めへ戻っていく。朧区にはまだたくさんの謎や噂が眠るが、きっと明日も陽気に、あるいは静かに、それぞれの暮らしを続けるのだろう。