「いらっしゃいませー。愛須さん、今日は時間どおりだね」
いつものように朗らかに迎える“ひさ”の声が、ガラス張りのドア越しに外まで響いている。店内は昼下がりの柔らかな光に包まれ、観葉植物の葉がゆらゆらと揺れながら、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。床は白木調で、洗練された内装がどことなく温かい。
「こんにちは、ひささん。今日もお願いできますか」
愛須は、ちょっと申し訳なさそうに微笑みつつ店内に入る。いつもトランペットのケースを肩にかけているが、今日は学校で用事があったのか両手に資料らしきファイルも抱えている。美容室の扉が閉まり、外の賑わいから切り離されると、店内の心地よい音楽とシャンプー剤のやわらかな香りが一気に漂う。
「もちろん。最近どう? 新学期始まって、音楽の授業も忙しそうだけど」
ひさは促すように空いている席へ案内し、肩にふわりとケープをかける。愛須は鏡越しに、映る自分を少し恥ずかしそうに見やりながら、笑みを浮かべた。
「うん、合唱の練習が立て込んでて、帰りも遅くなりがちかな。生徒たちは元気で、賑やかなんだけど……ちょっと変なことがあって」
「変なこと?」
「実はね、この前、校内放送で赤ちゃんの泣き声が流れたんだ。夜の部活が終わって、帰ろうとしたら急に放送室から『おぎゃーおぎゃー』って……。だけど放送部員は誰もいない時間で」
愛須が言葉を選ぶように、語尾を落とし気味にする。その話題の不気味さを感じ取って、ひさの手が一瞬止まった。
「うわ、それは……怖いね。赤ちゃんが放送室に? そんなわけないし」
「そう、校舎には夜だし生徒もいない。先生たちも首をかしげてて、そのまま対策もないまま……なんとなく、気味悪くて」
ひさはさっとハサミを手に取って、愛須の髪をそっととかし始める。櫛で丁寧に分け目を作りながら、「それ、明らかに何かいるんじゃないの?」と気軽に言う。
「いや、違うのかもしれないし……私も霊感あるとか言われるけど、本当に何が起きたか分からなくて。放送室に行こうとしたら、うっすら霧みたいのが廊下を漂ってて。やっぱり怖くて足がすくんじゃった」
「ふーん……。うちにはそんな謎な現象、ないけどねー」
ひさは苦笑しつつ、髪全体の長さを見定め、ハサミを動かし始める。ぱしぱしという軽いリズムが店内に溶け込んでいく。鏡越しに愛須の、糸目がちの優しい瞳がちらりと揺れた。まるで何か気にかかることがあって、深く考え込んでいるよう。
「そちらはどう? お店は忙しそうだけど」
愛須が逆に問いかける。ひさはふっと笑い、肩をすくめた。
「相変わらずかな。霞丘区って、落ち着いた住宅街なのに意外とお客さん多いのよ。ママ友が情報回してくれるみたいで、最近はカットやカラーだけじゃなくヘッドスパもやることになって。ま、それはいいんだけど……」
「なんかあった?」
「ちょっと気になることが。ほんの数日前にさ、店の前に座り込んでる男の人がいて、様子がおかしかったの。声をかけてもぼんやりしてて、そしたら突然『赤ちゃんが…ああ…』とか言い始めて……しばらくして立ち去っちゃったんだけど」
「えっ、赤ちゃん…?」
突然の共通キーワードに、愛須の声が上ずる。ひさも言ってからハッとし、「あれって偶然か?」と眉をひそめる。
「うわ、何それ、もしかして関係ある? 校内放送の赤ちゃんの泣き声と、そっちの意味不明な人……怖くない?」
「怖いね。でも、なんだろう……赤ちゃん、と言えば純粋なイメージだけど、こうも不気味だと心がざわつくかも」
店内の照明が暖色系とはいえ、外の空模様が少し陰鬱に変わってきたように感じられる。ガラス越しに見る空は灰色で、やわらかく降りかけていた光が薄れている。少し遠くで風の音が吹き込むようだ。
「もし何かあったら、言ってよ。私も力になれるかもしれないし。…一応、修験道のタオさんとか、夜回りしてる連中もいるからね。誰かを呼べば……」
「うん……ありがとう。私も霊感あるとか言われながら、いざというときビビるから笑っちゃうよね」
愛須はそう言ってさっと笑いを混ぜるが、その笑みの裏で何か重苦しいものを抱えているのが伝わる。ひさは黙ってハサミを動かし続ける。ぱしっ、ぱしっと毛先を整える音がひそやかに時を刻んでいく。
外の風が一瞬強まる。美容室の窓ががたっと音を立て、二人とも思わず視線を向けた。
「……風強いね。雨でも降るかな」
「霞丘区の天気は変わりやすいしね。それにしても、赤ちゃんの話……奇妙すぎるよ」
ひさが首を振ると、その仕草に合わせてハサミを休めた。「髪、だいぶすっきりするわよ?」と話題を変えようとするが、愛須は頭の隅で先ほどの“赤ちゃん”の偶然が気になっているらしい。
しかし、店の中は静かで安全だ。シャンプーの香りに包まれて、うっすらCDの音が流れ、ひさの手が丁寧に髪を扱う心地良さが広がる。いつの間にか、さっきまでの不穏な気配が後退していく。
「うーん、でも、大したことじゃないのかな。もしかしたら単なるイタズラ放送かもね、あれ」
「そうそう、意外に生徒の悪戯で、赤ちゃんの泣き声の録音を流したとかね。変な男の人も、ただ酔っていたとか、落ち込んでいただけとか」
「そうかも……。そっか、でも本当にそうだったらいいな。何か、事件とかじゃなければ」
愛須が腕を伸ばして、手鏡を受け取り髪の感じを確認する。大きくイメチェンするわけじゃないが、揃えられた毛先が見違えるほどまとまっている。軽くなった頭に、少し心も軽くなる気がする。
「できた。どう?」
「わあ、ありがとう。すごくいい感じ。自分でもハサミ入れようかと思ったけど、やっぱりプロにお願いして良かった」
「細い髪だから傷みやすいし、これくらいの長さがちょうどいいよ。もし何かあったらまた来てね。ま、怖い話はともかく、いつでも話だけでも付き合うからさ」
笑い合う二人の背後で、外の風が小さく止まる。雲の切れ間からうっすら陽光が差し込み、少しだけ明るくなったように見える。ガラス越しに覗く通りには、子ども連れの親子が通りかかり、楽しそうな声がかすかに聞こえる。
「ありがとう、ひささん。気持ちが軽くなったかも。仕事の方も、早く合唱コンクールの準備しなくちゃ。生徒たちが待ってるしね」
愛須が立ち上がり、ケープを外してレジへ向かう。ひさは思わず軽く伸びをしながら、「また何かあったら、おいで」と肩を叩く。
「うん。何もなきゃそれが一番だけどね」
二人は微笑みながら、すっかりいつもの日常を取り戻した雰囲気で会話を締めくくる。店のドアを開けると、霞丘区の柔らかい午後の光が射しこみ、さっきまでの不穏な空気はまるで一瞬の気のせいだったかのように薄まっていく。
「じゃあ、また来るね!」
「待ってるよ〜」
外から吹き込む、ほの暖かな風がふたりの間を抜けていった。赤ちゃんの泣き声や奇妙な男の話は、まるで遠い幻のように、既にこの明るい空気の中に溶け込み始めているかのようだった。