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【奇妙な日常】朧の門が開くとき

そろそろ霧が厚みを増し始める頃合いだった。何の前触れもなく、霞んだ街灯がぼんやりと滲んで見える朧区の参道を、もてぃすは一人歩いていた。配信の下見という名目だが、その実、彼自身がこの夜の雰囲気を味わいたいがための散策に近い。小さなワンルームで動画編集に追われるより、カメラ片手に霧の神社を巡るほうが、ずっと心が休まるのだ。彼は、おどけた表情とビビり芸で人気を得ているホラー系配信者だが、この街の夜気は、さすがに彼の冗談を打ち消すほどに重々しく、不安な気配を辺りに漂わせている。

彼の足は八重垣神社の境内へと自然に向かっていった。石段を一段一段踏みしめるたびに、木々の間を抜ける風が耳元でささやくような音を立てる。夜でも手入れが行き届いた参道は、苔むした石灯籠を幾つも並べ、そこをさらに霧が白く包む。点在する提灯の灯りが揺れるさまは、まるで溺れる虫が水面でもがいているかのように弱々しい。もてぃすはカメラを回しながら、どこか人の気配を感じ取った。

拝殿の手前には久我の姿があった。八重垣神社を代々守ってきた家系の老神主であり、背筋がまっすぐ伸びた姿が印象的だ。もてぃすは近づくでもなく、久我の横顔を撮影しようか迷った。暗がりのなか、老神主がこちらに気づいているのかどうか定かでない。たまに参拝客のために夜間も神社を開放していると聞いたが、今夜は特に祭礼があるわけでもないはずだ。一瞬、久我がこちらを振り向いた気がして、もてぃすはあわててカメラを下ろす。しかし、その視線が実際にもてぃすを捉えていたのかは、霧が白い幕となって曖昧にしていた。

結局、もてぃすは拝殿の真横を通るかたちで奥へ向かい、社務所脇の石段を下ろうとした。そこにはかすかな人影が見えたからだ。霧の合間に、女性の装束がちらりと見える。になだ。彼女はこの八重垣神社に仕える巫女であり、普段は明るい笑顔で参拝客を迎えると聞くが、なぜか今夜は誰とも話すことなく、石段の端に座り込んでいた。その装束もほの暗い緋色を濡らしたように見え、黒い夜気に溶け込みそうなほどしっとりとしている。彼女はもてぃすの姿を認めると、一瞬笑ったように見えたが、その顔は霧で半ば隠れ、はっきりは分からない。

「大丈夫……ですかね、こんな時間に。神社、閉まってるかと思って」
もてぃすはそう声をかけようとしたが、になの方からわずかに首を横に振る仕草が見えた。まるで「ここは閉まらない場所なんですよ」とでも言いたげだ。彼女は人懐こい印象があるが、今夜は随分と寡黙だ。もてぃすは何か不穏な空気を感じ取ったのか、あまり追及をせずに、そのまま石段を降り始める。カメラには、になの姿がわずかに映る。彼女が背後で何か呟いた気がしたが、その言葉は神社の霧に吸い込まれてしまった。

石段を下りきると、そこには社務所の裏手へ続く小道があった。もてぃすは普段なら絶対立ち入らないような場所も、配信のネタになるかもしれないと考え、好奇心にかられて足を踏み入れた。薄暗い参道のわきにある草むらを抜けると、夜露に濡れた地面が靴底を冷やす。どこからか獣の気配がし、時折、ざわざわっと木立が震える。あたりは静寂なのに、視線だけは何者かに注がれているような錯覚がする。そんな状態のなか、もてぃすはカメラを片手に、配信でよく使うオーバーリアクションを封じるように、息を殺して歩いた。

小道を進むと、木で造られた古い門が見えた。屋根だけが朽ちかけており、門柱に貼られたお札のような紙が何枚も剥がれ落ちている。彼はそっとカメラを向けたが、そのとき不意に背後から「こんな所に踏み込むのは、得策ではありませんぞ」と低い声が聞こえた。振り返ると、そこには久我が立っている。あの老神主がどうやって無音で近づいたのか、さっぱり分からない。もてぃすは驚きのあまり声を上げかけたが、久我の冷静な目と仕草に圧倒され、一瞬言葉を失う。久我は静かに門のほうを見据えた。まるで門そのものが生き物であるかのような眼差しだった。

「ここは……どこなんですか?」
ようやくもてぃすが声を絞り出すと、久我はゆっくりと顔を向け、穏やかとも厳格ともつかない口調で答えた。
「ただの裏口です。しかし、今夜は霧が深い。誰かに呼ばれでもしたのか、あなたの足は勝手にこちらへ来たようですな」
「誰かに呼ばれた……? いや、僕はその、夜の神社の撮影を……」
言い訳じみた言葉をもてぃすは呟くが、久我はそれ以上何も言わない。代わりに少しだけ門柱に近づき、剥がれた札の残骸を静かに拾い上げた。見ると、その紙はすでに文字のほとんどが消えかけている。久我はそれを目で確かめたあと、厳かにため息をついた。まるで「ああ、時期が来てしまったか」と言わんばかりだ。もてぃすは、老神主の横顔に恐怖に近い畏れを感じながら、一歩後ずさろうとした。しかし、その足がなぜか動かない。空気がまるでゼリーのように粘度を帯び、足首を絡め取っているかのようだ。

突然、木の間から別の人影がひょいと姿を表した。になである。先ほどは石段の上にいたはずなのに、いつの間にかこんな裏手まで来ている。彼女は巫女衣装を身にまとっているが、なぜか上半身にしめ縄のようなものをゆるくかけており、その姿は異様な雰囲気を醸していた。になの瞳は、かすかに光を帯びているようにも見える。そして彼女は、久我に向けて何か囁いた。遠くて言葉までは聞き取れないが、その声音は悲しみと決意が入り混じったような響きだった。久我は黙って頷き、門柱に手をあてる。すると門が小さく軋む音を立て、細やかな震えを走らせた。もてぃすはカメラ越しにこの光景を収めようとしていたが、液晶画面にノイズが走り、ピントが合わない。こんなトラブルは初めてだった。

そのとき、にながもてぃすのほうへ足早に歩み寄り、彼のカメラのスイッチを静かに押してオフにした。
「ここから先は、撮らないでください。……命のためです」
彼女はどこか遠慮がちに、けれども強い意志を感じさせる口調でそう言った。普段の明るい巫女の印象とは違い、静かな熱を帯びている。もてぃすは何か言い返そうとしたが、奇妙な説得力に負けてそのままカメラを下ろす。すると足の周囲を包んでいた粘度めいた空気がすっと解け、身動きが取れるようになった。もっとも、どう行動すればいいのか分からないまま、もてぃすは立ち尽くす。久我は札の残骸を手に握ったまま、門柱から視線を外さず、低い声で言った。
「悪いが、ここで引き返してもらいたい。あなたが本当に踏み込むべき場所があるとしたら、今はまだそのときではない」

もてぃすは何とか声を出そうとしたが、苦々しい空気が喉に詰まっているようでうまく言葉が出てこない。ただ、“何か大変なことが起きている”という漠然とした理解だけが、胸を締めつけるように広がっていく。になはふっと微笑み、そっともてぃすの腕を引いた。彼女の手は冷たく、そこに確かな霊力か何かが宿っているかのように淡い震えを感じる。もてぃすは流されるまま、半ば引きずられるようにして引き返していった。背後では、久我が門の前で何かの作業を始めたらしい。小さな鈴の音と、微かな囁きが聞こえる。

霧がさらに濃くなってきた。になは口を開かない。途中、境内に差しかかると、ほの暗い提灯の光のなかに人の姿が見えた。誰か参拝客がいるのか、それともただの影なのか、輪郭だけが揺らめいている。もてぃすが目を凝らして見ると、そこに確かに人影らしきものが立っていた。だが、声をかけようにも相手は霧の奥へすっと消える。ほんの一瞬、相手の顔がこちらを見た気がするが、その表情はまったく読み取れない。にながわずかに首を振る。「放っておきましょう」とでも言いたげだ。そのとき、もてぃすの脳裏に、不意にSNSで見かけた朧区の霧の怪談がよみがえった。宵闇の神社に現れる“幽霊参拝客”、あるいは“亡者の列”――そんな話をどこかで読んだ気がする。だが今夜の体験は、ただの怪談話とは違う、もっと具体的な実感を伴う恐怖があった。

境内を抜け、石段の始まるあたりでになが急に立ち止まる。振り返ると、社殿の方から弱々しい光が射していた。もてぃすは思わず「あれは久我さんですか?」と尋ねたが、になは小さく首を振る。どうやら別の誰かが社務所の灯りをつけたらしい。ふたりともそちらへ近づこうとはせず、石段を下りて行った。やがて霧が薄い場所に出ると、いつもの八重垣神社らしい佇まいが見えはじめた。まるで日常に引き戻されたかのように、穏やかな空気がひろがる。見上げれば、先ほどの重苦しい気配は嘘のようだ。になはもてぃすに向き合うと、微かに微笑む。

「あなたは……この街の真実を見たがっているんですよね。でも、気をつけて。あなたの配信では収まりきらないものが、たくさんあるんです」

言葉の意図をはかりかねるもてぃすに、になは「おやすみなさい」と静かに告げる。そして舞うような足取りで、霧の向こうに消えていった。彼女の後ろ姿は、あまりにも儚く、そしてどこか満たされぬ悲しみを伴っている。もてぃすは声をかけることができず、その場に立ち尽くしていた。せっかく回そうとしたカメラはまるで故障したみたいに電源がつかない。ここ数十分の出来事が夢だったのではないかと疑うほど、現実感が希薄だ。ここに来る前の自分が抱いていた「おどけてみせるホラー配信」のイメージは大きく崩れ、言いようのない沈黙が胸を満たしている。

やがて、風がざわざわと樹木をかき回し、夜の気温がさらに下がった。もてぃすはようやく思い出したかのように、少し早足で神社から離れようとする。霧の濃淡が変化するたびに、彼の脳裏を奇妙な残像が走る。久我の厳かなおもむき。になの静かな眼差し。あの古びた門と剥がれ落ちた札。どれも脈絡なく接続され、妙な違和感を発生させる。まるでこれはほんの序章にすぎず、更に深い闇が街のどこかに横たわっているとでも言わんばかりに。

社殿からほんの数百メートル歩いた先に、鳥居が見える。ここをくぐれば参道の正面口で、夜になると扉が閉ざされるはずだ。だが今夜は何故か、扉が開いたままだ。もてぃすは怪訝に思いながらその扉を抜けた。すると、そこから少し下った先の狭い路地で誰かの気配がする。見れば、白いスマホの画面がぼんやり光っている。そこにいるのは“にな”ではなく、背丈のある人間だ。もてぃすはおそるおそる近づく。すると相手は振り返らずに、スマホの画面をじっと見つめているようだ。

「何してるんですか、こんなところで?」
そう声をかけると、相手はゆっくりと振り向いた。街灯の弱い光に照らされたその顔は知らない男だ……と思った瞬間、「ああ、すみません。撮影の下見を」と、どこか聞き覚えのある声が返ってきた。それは、実際に顔を合わせたことはないが、もてぃすがSNSで見かけた“某映像サークルの人物”に似ている気がする。いや、確信はない。何か不自然に感じ、もてぃすはそれ以上追及をやめ、軽く会釈をして足早に路地を通り抜けた。彼の心には、再び得体の知れない疑念が芽生えている。あまりにも多くの不可解な存在が、この朧区の夜には集まっているのではないか。まるで夜の闇が人を集め、何らかの儀式が同時進行しているのではないかとさえ思える。

ほとんど人気のない小道を抜け、もてぃすはやっと車通りのある表通りへ出た。電灯の光は濃い霧を淡く照らし、コンビニの看板がぼんやりと浮かび上がって見える。いつもの都会的な夜景がそこにあり、数台の自動車がゆっくりと走り抜ける。この瞬間、先ほどまでの光景が遠い夢のように思えた。あれは本当に現実だったのか。もてぃすは息をつき、壊れたカメラを試しに再起動させる。すると、あっさり電源が入るではないか。映った液晶画面には先ほどの撮影データがほとんど残っていない。画面にはいくつかの断片的な霧のシーンが、ぶつ切りの映像となって記録されているだけだ。久我の姿もになの姿も、ほぼ何も見えない。白いノイズが断続的に走るばかり。もてぃすは頭を抱えたい気分だった。配信のネタどころか、自分自身がわけの分からない恐怖の入り口で立ちすくんでしまった形だ。

一方、神社の裏手では、まだ久我が門柱に貼りなおした新たな札に祈りを捧げていた。なにかしらの封印を強化するためだろう。になはそのすぐ脇で巫女の装束のまま、短い経文のようなものを唱えている。もてぃすが門の前まで踏み込んだことで、ギリギリの境界を揺るがすきっかけが生まれてしまったのかもしれない。神主と巫女はただ、それを鎮めるために黙々と作業を進めている。どこかから、杖の先に取り付けられた紙垂がふわりと揺れる音がかすかに聞こえ、重苦しい気配が夜闇の中で渦を巻いている。

街の遠くでは、夜釜の煙がわずかに昇っているのを誰かが見たという。霧ノ徒のメンバーのひとりが、宵の山道で靄の裂け目を見つけたという噂もある。黄泉教は満月の夜に向けて、新たな儀式の準備を密かに進めているという話もある。だが、そんな種々の闇の動きとは別のところで、久我とになはただ、この夜だけは大きな乱れを起こさせないよう、懸命に封印を維持しようとしている。もてぃすが何も知らずに偶然そこを通ったとしても、すべてを知る立場にはないし、知ってしまえば戻れない場所へ踏み込みかねない。だからこそ、二人は配信者を強引に追い返さず、それとなく危険から遠ざけていたのだ。

夜は深まる。もてぃすはもう一度神社の方向を振り返り、自嘲ぎみに笑みをこぼす。「やっぱり、この街ヤバいな……」と心の中で呟く。それでも、不思議と足がすくむばかりではない。逃げ出すように部屋へ戻るのではなく、次はどうすればもっと深くまでカメラを潜り込ませられるか――彼の中には奇妙な闘志が湧き上がっていた。恐怖と好奇心がごちゃ混ぜになり、配信者としての血が騒いでいるのだろう。夜風が冷たく頬を撫で、街灯の光が再開発で整備された舗道に伸びる。それでも朧区は、ほんの少し歩を進めれば原初の闇が牙をむき、今にも人を呑み込もうと息を潜めている。

久我は裏手の門に札を貼り終え、安堵の息をつく。になが小さく頭を下げ、打ち払いの動作を終える。その仕草は麗しいが、まるで厳粛な儀式の一幕だ。このまま今夜は大きな乱れを起こさず、夜が明けてくれれば良いのだが――そんな淡い願いが、二人の間に通じ合っている。何かが蠢き始めているのは確かであり、それを食い止めるには、街の結界をいま一度固め直す必要があると、久我は薄々感じている。この街で大きく暗部を揺さぶる動きがあるとすれば、もてぃすのような好奇心旺盛な外部の人間が深く踏み込むか、あるいは黄泉教の勢力が封印を解こうと動くか、霧ノ徒が霧との合一を加速させるか……可能性はいくらでも転がっている。

神社の外に出たもてぃすは、そのまま霞む街路を通り抜け、タクシーを拾おうと考えていた。夜の配信は中止して、自宅に戻って素材をチェックし直すしかない。しかし、撮れ高はほとんどないだろう。視聴者に見せられる映像がないどころか、彼自身が得た奇妙な体験こそが最大のホラーだ。どう伝えたところで「やらせ」と思われるかもしれないし、逆に大勢の興味を煽ることになるかもしれない。いずれにしても、この街の深淵には入り込む覚悟が求められる。もてぃすの胸は、恐れと昂ぶりに満ちた鼓動を刻んでいる。

朧区の空は相変わらず霧のヴェールを纏い、月の輪郭すら見せてくれない。神社から離れれば離れるほど、夜闇の圧はやや薄れ、アスファルトの大通りが出現する。コンビニのビニール看板が風に揺れ、人工的な明かりが戻ってくると同時に、もてぃすは少しほっとする。だが、あの門と札の光景、になの瞳、久我の沈黙を思うと、なぜか心の奥底に針が刺さったような違和感が残る。あの先には、あまりにも重大な“何か”があり、それが一歩間違えれば全てを呑み込むかもしれないという予感。その予感は、この街を出て一歩別の場所へ行ったところで振り払えるものではないだろう。

神社の闇が深まる頃、久我とになは祈りを終え、拝殿のほうへと戻った。霧の合間をさまよっている参拝客のような存在がどれほどいるのか定かでないが、彼らはひとつひとつ火を消していく。こうして朧区の夜は、ひっそりと、だが確実に何かを孕んで過ぎていくのだ。たとえ街全体が眠りについたとしても、封じ込められた闇は目覚める機会を狙っている。久我の指先はわずかに震え、その視線の先には、もはやもてぃすが立ち入るべきではない裏手の門がある。になはそれを横目で見ながら、ふっと物憂げな表情を浮かべ、夜風に消えるように姿を遠ざけた。

月の光は相変わらず霧に遮られ、一条の鈍い輝きすら地面に届かない。まるでこの街そのものが、夜の底に沈み込んでいるかのようだ。あの場所で起きたことは、ほんのささいな前触れにすぎない。それを察知した人間はまだほんの一握りだが、すべてが無関係ではいられない。もてぃすは夜の街を背にして、タクシーに乗り込み、霞丘区方面へと向かう。車窓から見える朧区の景色は、いつの間にか霧が晴れかけていて、ただの静かな住宅地のようにも見える。だが、彼の心に刻まれた今夜の記憶は、二度と消えることなく、むしろ日を追うごとに膨らむ疑念として彼を駆り立てるはずだ。すべてが仕組まれているかのように、因果が複雑に入り組んだこの街では、ほんの一晩の出来事が未来を大きく変えるきっかけになる――そんな予感が、月も見えぬ霧の夜にそっと芽生えている。

結局、誰もが自分の足元しか見えない深夜の朧区で、もてぃすと久我とになの三人は、わずか数分の接点を持ったにすぎない。けれど、その刹那に交わされた無言のやり取りと、微かな視線の交換は、確実に神社の封印に、あるいは街全体の暗部に、何らかの波紋を投げかける。彼ら自身がそれにどれほど自覚的かは分からないが、いずれ噴き出す大きな渦があるのだろうと、夜の空気だけが暗に囁いている。

そうして夜はじりじりと明け、朧区の神社には朝の薄明かりが差し込み始める。久我は夜の儀式を終え、社務所で小一時間ほど眠り、早朝の参拝客を迎える準備をする。になは彼と交代するように姿を消し、昼間は静かに体を休めるのかもしれない。もてぃすは霞丘区のワンルームに戻り、うとうとしながら壊れたカメラを直す作業に没頭する。誰もが普通の日常へと回帰するかのように装っているが、その奥には薄暗い影がきっちりと張り付いている。

今日、明日、そして次の霧の夜には、また異なる形で三人の道が交差するかもしれない。あるいは黄泉教や霧ノ徒、黒霧会の動きが広がり、神社の結界や港の底に潜む何かが揺れ動き始めるかもしれない。いずれにせよ、この街に存在する闇は時折その輪郭をちらつかせ、触れた者を逃さぬように睨み据えているのだ。そんなことを誰もが無意識に理解しながらも、普段と変わらぬ日常を生きている。その狭間で、霧と神と人々は、得体の知れない契約関係を結んだまま眠り続ける。もてぃすの次なる配信が始まるとき、久我が次に向き合わなければならない門が開かれるとき、になが静かに巫女装束に袖を通すとき――この街の運命は、少しずつ均衡を崩し始めているのだろう。やがて朝の陽光が神社の鳥居に差し込み、夜の闇を洗い流す。その一瞬だけ、久我が深いため息をつき、になが虚空を見つめ、もてぃすが目をこすりながらカメラをチェックする。彼らの未来がどう形作られるのかを、今はまだ誰も知らない。けれど、霧の気配だけが、それを知っているかのように思えるのだ。

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