あの夜、霞丘区の外れを歩いていたMAKIは、どうしても薄ら寒い感じがして足を止めた。月の光に溶けそうな霧が足元を覆い、視界の端に小さな人影がちらつく。思い込みかもしれない、と自分に言い聞かせたところで、その人影がMAKIの裾を軽く引っぱった。見ると、年端もいかない智乃が、無言でこちらを見上げている。なぜこんな時間に彼女が1人で、と思ったが、子どもながらに落ち着いたその目には不安がまったく見えない。
「こんなときでも霧が好きなの?」とMAKIが尋ねると、智乃はこくりと頷いた。5歳のはずなのにどこか大人びた空気をまとっている。もしかして迷子、と思いきや、霧の向こうから声にならない呼びかけのようなものが聞こえてくる気がした。言葉とは違う、ざわりとした音というか、誰かがそこにいる気配。とっさにMAKIは辺りを見回すが、靄の向こうは一面の白さしかない。
「帰らないの?」——MAKIの言葉に、智乃は小さく首を振る。しばらく沈黙が落ちる。どこかで小さな笑い声が聞こえたような錯覚に、MAKIはゾクリとした。通り過ぎる霧に混じって、何かがうごめいている、と直感だけが告げる。何かが、この子を呼んでいる? それとも智乃自身が、霧のほうへ吸い寄せられているのか。
それでもMAKIは慣れ親しんだ明るい声を作り、「そろそろ家に帰ろうね」と笑いかけた。すると智乃がぼそりと「家はすぐそこだよ」と呟く。でもその方向は、彼女の家があるはずの反対側。まるで霧の奥深くが、自分たちのいるべき場所だとでも言うかのように。背筋に冷たい汗が滲む。一瞬の逡巡ののちMAKIは、霧の奥を見る勇気が湧かなかった。智乃を促し、なるべく穏やかに別の道へ足を進める。
ところが、数歩歩いたところで靄が急に濃くなり、あたりに白い幕が降りたかのように路面すら見えなくなる。気づけば智乃の姿が見当たらない。まさかと思い声を上げようとしたMAKIの袖を、またしても誰かが引く。見れば、智乃がさっきと同じ位置に立っている。そして、ほんの少しだけ笑っているように見えた。まるで、この霧の中を既に何度も歩き慣れた人の顔。
MAKIは言葉を失い、ただ智乃を抱き寄せようとする。しかし腕の中には確かな温もりがあったはずが、あっという間にすり抜けていくような感覚がした。そのとき、かすかに「またね」と囁くような声が聞こえる。霧のせいか、夜風のせいかはわからない。霧が晴れかけた路地に立ちつくしたMAKIのまわりには、ただ静寂だけが残されていた。もう一度あの小さな背中を見ようと目を凝らしても、どこにもいない。彼女はまるで、霧そのものに溶けこむように消えたのだ。
翌朝、MAKIは昨夜の出来事を誰に話すでもなく、いつもの子育て支援の仕事をこなした。誰かが同じ時間に智乃を家へ送り届けたのか、本人は何事もなかったかのように翌日を迎えているらしい。たしかに朝になれば、霞丘区の霧はただの湿った空気にすぎない。けれど、この街では昔から「夜の霧には魂が交ざり、消えてしまった存在が姿を見せる」とか「子どもは霧に誘われやすい」とささやかれている。MAKIの脳裏には、あの小さな瞳の奥で微笑んでいた霧の影が消えないままだ。霧の夜がくるたび、またあの子が自分の袖を引くかもしれないと、ふと考えてはそっと窓を閉めるのだった。