『冥ヶ崎人格スワップ現象』とは、冥ヶ崎市内の主要4区である、紅倉区、霞丘区、冥ヶ崎中央区、朧区の住民たちの人格が文字通り入れ替わったかのような現象のことである。
最初は数人が「なんだか隣人の性格が急に変わった」と訝しんだだけだったが、次第に街中から戸惑いの声が増えていった。
例えば、紅倉区の漁師が気弱になり、一方で霞丘区の穏やかな主婦が漁師のような豪快な口調に変わった、という報告が相次いだ。
しかし、妙なのは当人たちが自分の変化にまったく気づいていないことだ。
本人は同じ姿で暮らしているつもりなのに、いつの間にか行動や言葉遣いがまるで別人のようになるのだという。
最初は軽くジョーク扱いされていたが、家族さえ「父親の身体に母親の性格が混ざったみたいだ」と困惑する事態が頻発し、やがて深刻さが増していった。
特に大きな混乱が見られたのは、冥ヶ崎中央区の企業オフィスで、上司と部下が人格ごと入れ替わったらしく、命令系統が崩壊するトラブルが起きた。
部下の外見をしたまま、上司の冷淡な決裁を繰り返す様子は異様だったという。
そして朧区の山里でも、物静かな宿坊の青年が唐突に紅倉区の訛りを話し始めるなど、まるで誰かと心が入れ替わったかのように見える例が増えていった。
当初、それぞれの区の住民性が少しずつ混ざるのかと思われたが、実態はもっと奇怪だった。
数日おきに“誰かの人間性”が別の身体に飛び移り、元に戻ることなく別の場所へ点々と移ってしまう。
まるで街全体で巨大なシャッフルが行われるように、個々の人格が行き来しているようだった。
観察するうち、行動パターンが醸し出す違和感で、周囲は「また誰かが入れ替わったらしい」と察するのが精一杯。
専門家が介入しても原因は不明で、そもそも脳や記憶に異常は見当たらない。
大多数の当事者は、自分が一切おかしな挙動をしている自覚を持たず、家族に問い詰められても「何が問題?」と首をかしげるだけだった。
かと思えば、わずかな人だけが「自分の身体が遠のいている感触」をぼんやり語り、翌日にはさらに別の人格を宿してしまう不可解な例も存在した。
一方、町中で奇妙な現象が断続的に起こり始める。
霞丘区の電車が朝だけ紅倉漁港に直通する、冥ヶ崎中央区のビル群で朧区特有の霧が立ち込めるなど、区境を越えるような異常が見られた。
これらのエピソードは一過性で、その日のうちに消えてしまうため、行政もなす術がなかった。
そしてある午後、全四地区の住民が一斉に“もとの自分”へ戻ったかのように見えた瞬間が訪れた。
そのとき、街中の時計が一斉に停止し、再び動き始めるまで数分かかったという。
停止していた数分間は不思議と静寂に包まれ、街頭すら暗転したとの目撃証言がある。
その後、住民らは自分が入れ替わっていた時間をまるで夢のように語り、詳細を思い出せないという。
原因を調べようとしていた研究者たちのメモも何らかの理由で破損し、明確な報告は出なかった。
結局、入れ替わりが収まるまで数日かかったが、今は元通りの日常が戻ったかに見える。
しかし一部では、この現象が再び起こるときに、人格だけでなく記憶や魂までもが別の肉体に留まるのではないか、とささやかれている。
以上が“ある日突然、街の住民が互いに中身を交換しあった”不可解な出来事の顛末だ。
いまもどこかで新たな入れ替わりが始まっているかもしれないが、その兆候に気づく前に、あなた自身も誰かの人格と差し替わってしまっているのかもしれない。