「さて、いったい誰がこんなミステリーツアーを仕組んだんだろうな」
夜の朧(おぼろ)区の山裾で、雅樹が車のドアを閉めながら、やや苛立ち気味にそう言う。濃い霧が山道を白く染めて、足元さえぼんやりとしている。ライトに照らされて葉が照り返す姿は、まるで密やかに呼吸する生き物のようだ。
「知らないよ。僕だって、急に主催者不明のツアー案内役を頼まれただけだから」
フード付きの薄いパーカーに作務衣を重ねるという奇妙な格好の御影 麗(みかげ うらら)が、車のそばで腕を組む。下駄を鳴らしながら降り立つその姿は、ここ朧区でもやはり目を引く。黒髪のセンター分け、くせ毛でふわりと揺れ、暗闇のなか目元が隠れるため表情が読みにくい。彼はノミや彫刻道具の入った小さな袋を肩にかけていた。
「でも招待状には、案内役として“朧区の力ある者”が必要って書いてあったろ? それでおれとおまえが選ばれたみたいだが……なんだか釈然としないな。まるで俺たちが都合よく駆り出されてるだけのような気がしてよ」
雅樹は頼りになる体格の良い修験者だ。朧山衆の一員として霧の山を駆け巡り、ときに遭難者の救援までやってのける。いわば頑強な山伏のような存在。その彼が、珍しく落ち着かない素振りを見せているのがわかる。
「まあ、実際のところ依頼の文章も怪しげだったしね。『○月×日に、朧区の原生林を通る秘ルートを案内してほしい』とか。主催者の名前すら書いてないし。そんなツアー、普通なら受けないよ」
御影 麗は冷静な口調で言うが、その声にはいつもの辛辣な響きが含まれる。「でも変な好奇心がわいてしまって、つい二つ返事で受けちゃう自分が嫌になるよ」と小さく続ける。暗がりのなか、彼のまなざしが鋭く光るのが見えた。
「おれは“トラブル体質”で有名なのに、あんたまで巻き込むの申し訳ないが……実際、おまえも似たようなもんだろ」
「そうかもしれない。あっちもこっちも、何かと奇妙な事柄に遭遇しやすい同士ってことかな」
風が葉を揺らす音が耳にしみる。深い緑の匂いに混じって、どことなく湿った土の香りがする。二人は、舗装されていない細い山道を見下ろしながら、しばらく言葉を交わさない。まるで目の前に広がる霧の奥から、何かがこちらをうかがっているかのように感じていた。
「この時間まで待っても誰も来ないってのは、どういうことだ? 集合時間はとっくに過ぎてるし、俺たちだけ放置かよ」
雅樹が苛立ちを押し殺した声でつぶやく。普段は陽気な彼だが、こうやって無駄に待たされるのは性に合わないようだ。一方、御影 麗はそんな彼を横目に眺め、肩をすくめる。
「そもそも“怪しいツアー”だしね。こんな森の中で待ちぼうけさせるってのが狙いかも。参加者に恐怖心を煽る演出って可能性はある。ミステリーツアーっていうなら、あり得るか」
「ああ、なるほどな……。まさか、客が怯えて帰りたくなるところを、あたしらが案内して鎮めるとかいう筋書きか? フン、まるで肝試しを頼まれたような気分だぞ」
「そんな線もある。まあ、俺は面白いから続けて待ってるけど、あまり時間が経つようなら帰るさ。俺には仏像の修繕作業が山ほどあるし」
二人は苛立ちと呆れを同時に抱えつつも、この場から立ち去るでもなく、木の幹に寄りかかって獣道の奥を見やる。霧は少しずつ濃くなっている気がする。雅樹の手には古い懐中電灯が握られているが、灯すにはまだ早い。気配を探るには闇のほうが都合がいいからだ。
「しかし……朧区の霧はいつ見ても神秘的だが、この時間帯は格別に不気味だな。行き場を失った声が聞こえそうだ」
「ああ、昼間の霧とは違うよね。まるで意思があるみたい」
どこか遠くで小枝が折れる音がした。二人は反射的にそちらを向く。だが何も見えない。闇と霧が交じり合い、枝葉がざわざわ揺れる。まるで森全体が、不気味な生き物のように息をしているようだ。
「この場所、うわさじゃ霧の夜になると消える道が現れるって話があったっけな」
「ああ、それ。朧区では定番の怪談だよ。“幻の道”とか呼ばれてたっけ。おれも何度か噂は聞いた。実際踏み入れてしまった人が戻ってこないとか何とか」
「主催者不明のミステリーツアー……そこへ行くルートがこれかもしれないな。客を案内するどころか、客自身も存在しないとかさ」
「やめろよ、そういう冗談は……」
雅樹は苦笑交じりに言いながら、その場にしゃがんだ。手で地面を触れると、湿った土がひんやりしている。その力強い手が泥を握って立ち上がり、「もしも本当に消える道があるなら、おれが先陣切るしかないか」とつぶやく。だが、それ以上口にしようとしないのは、心の奥でやはり不安があるのだろう。
「もうちょい待とうか。この霧が少し引くまでは」
「そうだな。きりがない……ほんとに“霧”だけに切りがないな」
呆れるような親父ギャグをかましたのは御影だが、何の反応もない雅樹を見て小さく笑う。すると、急にどこからか小石が転がる音がして、二人ともピタリと息を止める。
「いたずらか……? それとも誰かが隠れてる?」
「やれやれ、これもツアーの演出? いい加減にしてほしいね」
その後もしばらく、二人は黙りこくって暗闇と霧を睨んでいたが、結局、姿を現す人影はなかった。時間だけが静かに過ぎ、森は深みを増す。虫の声さえも、この時ばかりはやんでしまったようだ。
「もう限界だろ、俺たちだって“案内”する相手がいないんじゃ話にならん。帰ろうぜ」
御影がやや投げやりに言い放つ。再び小さな風が葉を揺らし、霧がほんの少し緩んだように見える。
「だな……。もしツアーがあるなら、後日もう一度連絡が来るだろう。今回がドッキリならいいけどさ……妙に胸騒ぎがするのが嫌だよ」
雅樹が立ち上がり、車かバイクか分からないが用意してきた足を探しに戻ろうとする。御影も下駄の音を立てながら続く。お互い軽く視線を交わすだけで、言葉はない。その沈黙こそが朧区特有の気味悪さを際立たせていた。
視線を遠くにやると、山の際がわずかに明るくなりはじめている。夜が完全に深まる前の一瞬だけ、霧のベールが薄くなって周囲の木々が輪郭を取り戻す。二人の足元も地面が見えやすくなり、少し歩きやすい。
「まったく……妙な時間を浪費しちまった。あんたのせいじゃないけど、こっちも付き合っちゃったし、散々だね」
「悪かったな。おれもこんな訳わかんない依頼には付き合いたくなかったが、つい好奇心で……お互い似たようなもんだろ?」
「ま、そうだけどさ。ま、いい経験として、終わりってことにしようか」
口調は辛辣気味だが、どこかやんわりとした調子で言う御影と、それを苦笑いで返す雅樹の姿が朧区の山道をゆっくりと離れていく。置き去りにされた霧は、ひっそりと森へ溶け込むように沈黙するのみ。
遠く、街灯が立ち並ぶ道の向こうに人家の灯りが見え、二人はそちらへ向かって並ぶように歩く。空気には夜の匂いが濃く満ち、山の息遣いはやがて静寂へと戻っていく。会話が途切れても、空気は少し和らいだ気がする。その表情にはわずかに安堵が浮かんでいるようでもあった。やがて、幾度かの足音を刻むだけで二人の姿は木立の陰に消え、霧の向こうで小さな話し声がなお続く気配がする。
不意に、誰のものとも知れぬ笑い声が森の奥で微かに響いたような気がするが、それを耳にするのはもう誰もいない。霧の冷たさだけが、暗闇の山道に静かに残されていた。