ある漁師が、赤錆の泥を瓶に詰めて持ち帰ったという話を聞いたのは、雨の止んだ夕方のことだった。とある研究者が泥の成分を調べたいと頼み込み、彼に酔った勢いで応じさせたという。それきり漁師はぽろっと口をつぐんだが、その瓶だけは研究者の手に渡り、翌朝には誰もいない港で空っぽのまま転がっていたらしい。
奇妙なのは、その研究者が赤錆の泥と称して瓶に集めたものが「まったくの無色透明の液体」に変わっていたことだ。数名の目撃者が言うには、夜明け頃に港の倉庫街をうろつく彼を見かけたとか。彼はまるで睡眠を削られた顔つきで歩いていたが、誰かと話し込んでいた様子もない。それでも彼の足元には細い水の跡が続いていたそうだ。まるで、瓶から液体が滴り落ちながら、倉庫や岸壁を巡っていたかのように。
夕暮れの倉庫はいつも通り静かだった。ドアの隙間から、わずかに潮の音と不規則な拍動のような響きが聞こえる。誰かが深夜に“水”を運んでいるのでは、と勘繰る人もいたが、追及する者はいない。赤錆の泥がもつ“何か”に触れてはならないと、漁師たちは暗黙で同意している。
翌週、研究者はいつの間にか港を去っていた。いや、去ったのか、いなくなったのか。はっきりと言える住民は一人もいない。港の底を隠している赤褐色の泥は、そのまま見なかったことにされ続ける。
ある日、一人の通りすがりの観光客が「こんな赤い水たまりは初めて見た」と、スマホで撮影した。画像をSNSに上げようとしたらアプリが何度もフリーズし、ついに再起不能に陥ったと彼は嘆く。じつに星の数ほどある故障のひとつだろう――と人々は笑い飛ばした。
だが、これに似た話が別の観光客にも起きている。ファイルが消える、画面が赤黒く歪む、通話履歴が勝手に増える。なぜか皆「真昼の港で海面を撮っただけ」と言うのだ。
少し頭の回る人物が、漁師に尋ねた。「もしかして、あの泥は人の血か何か……?」 漁師は、ゆっくり首を振った。言葉を口にせず、ただ、せき込むように小さな笑いをこぼす。
この地域では、その笑い方を“決して深く聞くな”という意味だ、と年配者が教えてくれた。
その後も赤錆の泥にまつわる変事は続くが、倉庫街の夜は静寂を装ったまま。まるで誰かが、港の底で何かを待っているかのよう。
誰かがそれを真に解き明かそうと足を踏み入れれば、きっと次の日には漁協が「ああ、あいつも旅に出たんだろう」と言って終わりなのだろう。遠い昔から、ここでは“そうやって”全てを闇に葬ってきた。
――それを疑問に思う者はいつも、朝にはいなくなる。バッグの中に泥の跡を残して、港のどこにも見当たらない。
海が赤く染まることなど、昔はしょっちゅうあったのだと古い漁師が云う。けれど今は大した祭りもなく、ただ倉庫が並んでいるだけさ。彼はにやりとした顔を隠すように帽子を深く被り、最後にこう付け加えた。
「ここじゃ赤い泥と同じ。みんな、見て見ぬふりだよ」と。