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【都市伝説】壁を見つめるアルバイト

ある日、霞丘区の求人欄に妙なバイトの情報が載った。「壁を見つめるだけの簡単なお仕事。時給良し。条件不問。」誰が冗談かと思ったが、実際に応募した者は数名いたらしい。仕事の内容は文字どおり、部屋の一角にある白い壁を数時間じっと見つめているだけ。指示があるわけでもなく、ただ定刻になれば黙って帰っていいという。報酬はそれなりに高額で、怪しいがシフトは埋まる勢いだった。

働いた人々の話によれば、作業用の長机が奥に置かれており、そこにノートが数冊並んでいる。そこに何かを書き込むわけでもなく、客が来るわけでもない。ただ「壁を見ている姿を管理者が確認するから、余計な動きをしないように」という約束があるだけ。管理者はときどき小窓から覗き、「はい、OKです」と言うが、具体的な評価もなければ、何の目的かも示されない。これが数週間続いても、誰も辞めようとしなかった。無言で集中し、壁を凝視するだけなのに、なぜか不快な感覚はなかったのだ。

だがある日、ひとりのアルバイトが壁のほうを見ながら、ふと色の変化を感じたという。白いはずの壁が、じんわりと青っぽい影を帯びていた。錯覚だろうと思いこみ、とくに騒ぎ立てなかったが、休憩時間に同じ経験を他のバイトにこっそり話してみたら、相手も「昨日、同じことを感じた」と答えたらしい。それが深刻に問題視されることもなく、ふたりは無言で壁に向かい続けていた。

その後、その部屋を引き払ったバイトが言うには、どうやら壁には細い文字のようなものが浮かび上がった気がしたという。何かの暗号か言葉かもしれないが、じっと見るほど言葉というより“人の影”に見えた。管理者に聞いても「気のせいですね」としか言わない。誰もトラブルを起こさず、壁を見つめるバイトを淡々とこなしている。奇妙なのは、作業中に音楽もかかっていないのに、だんだんと耳の奥が振動するような感覚が生まれることだ。それは隣の人に話しても共有できず、どうやら各自が別々に“何か”を感じ取っているらしい。

それでもバイトを続けた人たちは、みな気づけば「壁を見つめるのが心地いい」とさえ言い出した。集中力が高まり、時間が過ぎる感覚が薄れ、終わって帰るころにはぼんやり幸福感を抱いている。給料もしっかり振り込まれ、文句なしだが、外部の人からすればこの状況こそ異様だ。何か洗脳じみた効果があるのか、あるいは壁自体が不自然に“人の意識”を吸い取っているのではと囁かれている。

やがて求人は締め切られ、貼り紙は剥がされた。残ったのは、壁を見つめるアルバイトを経験した数名の微妙な変化だけ。彼らは依然として普通に暮らしているが、ときどき無意識に目を閉じて笑いだしたり、まっさらな壁を見ると足を止めて恍惚の表情を浮かべたりする。働いている最中、壁に何が映り込んでいたのか、誰もはっきり言わない。管理者はいつの間にか消えたが、「あのバイトはまた別の場所で再開するらしいよ」という噂が流れる。目的不明で、犠牲者もなく、ただ心をすり減らすほどの不気味さを残したまま、誰もがその部屋のことを話題にしなくなったのだ。

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