朧区を覆う夜霧は、その晩にかぎって妙に薄かった。にもかかわらず、空気の湿り気が肌に張りつくように重く、誰もが小声でしか会話できない。になは神社の石段を掃き清めたあと、じっと参道の向こうを眺めていた。足元に、猫か何かが動いているような気配があるが、気にしないふうを装っている。
境内の脇にこげまるが立っているのを、になは見つけた。こげまるはITエンジニアとやらの肩書きを持ち、無精ひげを生やしながら薄暗い場所をウロウロしている。彼は観光客でもなさそうで、ただ神社近くの壁を触って何かを確認しているようだった。無表情のまま、その太い指先で石段に沿ったケーブル類を探すように撫でている。になは「何をしているんでしょう」と声をかけそうになったが、やめた。こういう人間は、余計な干渉を嫌う気がしたからだ。
しばらくして、こげまるが振り返り、になと目が合った。にこりともせず、丸眼鏡の奥で視線だけが動く。無言のまま、彼はポケットからスマホを取り出し、画面に映る不穏な数値を見せるかのように一瞬こちらへかざした。どうやら電波か電磁波か、あるいは謎の周波数を測っている様子だ。になは巫女の装束のまま、神妙な顔でそれをじっと見つめた。
するとこげまるは、スマホ画面を見つめながら舌打ちに似た小さな音を漏らし、すぐに石段を下りはじめる。そこにはいつもの闇に溶ける小道が続いているはずだった。ところが、なぜか今夜は足元に微妙な段差が増えているように見えた。になは目を細める。こげまるの足先が、その段差を踏み外しかけたが、すんでのところで体勢を直す。
「まったく……」と彼はひとり言のように呟き、うっすら霧をまとった道へと消えていった。深夜の朧区では、ただの道が別の場所へ通じているという話は珍しくない。になもまた、聞こえないふうを装いながら境内へ戻ろうとする。気配はより濃厚になり、林の奥からちぎれた囁きが風に流されてくるかのようだった。
ふと、ふたりの姿が消えた参道には誰もいないはずなのに、微かな光が石灯籠を照らしている。まるで手に提灯を持った人間が通りすぎた痕跡のようだ。になの背筋に嫌な粘り気が走る。いや、粘り気というより、胸の奥がざわつく感覚。霧は薄いが、確実に朧区特有の何かが今夜もじわじわ呼吸している。
こんな深夜に何度も道を往復する理由など、普通はない。にもかかわらず、こげまるの行動はひときわ目的が定まらないように見えた。無精ひげを撫でながら、丸眼鏡の奥の目はどこか不気味な決意を帯びていた。それをになは、なんとなく『まだ検証することがあるのだろう』と受け止める。むしろ、彼がどこで計測していた周波数データを、誰に知らせるつもりなのかが気になった。巫女として土地を守る自分と、何らかの謎を追う彼の存在は、交わりそうで交わらない線上にある。そんな予感がちらついた。
夜更けに石段を下りきったこげまるが、不意に何かを踏んだらしく、乾いた音が響く。木の枝か紙片か。になには見えないが、風が強くなってきたのか、細かな落ち葉が昇ってきては足元をさまよっている。その一帯だけ、なぜか色が濃く染まっていくように感じられる。誰もいない闇のなか、神社の狛犬が笑うように口を開けて、月明かりと霧のコントラストが白く浮かぶ。になは息をのんで目をそらす。
明日になっても何も起こらないのか、それともこの街独特の現象がまた別の形で姿をあらわすのか。そんな考えもわずかに頭をかすめるが、になは口を結んで、その場を離れる。こげまるはすでに姿を消し、スマホの画面だけがわずかに街路樹の陰で明滅しているように見えた。
それはひょっとすると、朧区の霧が作り出した幻かもしれない。しかし、この土地では誰も驚かず、次の朝がひとりでにやってくる。空気はじめっとしており、すべての人間が冷ややかに沈黙を保つ。にもかかわらず、何か決定的な異常は起こらない。実はもうとっくに起こっているのに、誰もそこには触れないだけなのか。になはそんなことを思いながら、拝殿で静かに灯りを消していった。