れなのカフェは、朧区の山道を進んだ先にある小さな川沿いにひっそりと建っている。木製の看板には手書きで「れな Café」とあり、素朴な温かみを感じさせる。その日、開店まもなくれなが仕込みを終え、カウンター越しに豆を挽いていると、風鈴のような店のドアベルが控えめに鳴った。
「おはようございます。れなさん、今日も賑やかではないようですね」 穏やかな声で久我守泰が入ってくる。巫女装束の上から一枚羽織をかけた姿で、山道を下りてきたためか、少しだけ呼吸を整えている。
れなは笑顔で振り返り、
「おはようございます、久我さん。ここはいつも静かですから、慌てる必要もないですよ。今日はどんなご用事で?」
そう言いながら、エプロンの裾を整える。仕事服のカフェエプロン姿がよく似合っている。
「いや、朝の山巡りを終えてね。霊場の様子を見たあと、少し腰を下ろしたいと思っていたのですよ。ずいぶん冷え込みますな」
久我はふと窓の外を見やる。山々の緑が薄霧をまとい始め、ゆっくりと近づいてくるように見える。
「冷えますねぇ。ホットコーヒーにします? 豆は今朝、良いものが届いてますよ」
れながさらりと提案すると、久我は丁寧に頷く。
「ありがたい。では一杯、いただこうか」
れなはカウンター内でコーヒードリッパーを用意し始める。お湯を沸かす音が小さく店内に響く。一方、久我はふと視線を上げ、棚に並べられた骨董のマグカップや小物を眺める。
「相変わらず、レトロなものが多いですね。これは昭和期のガラスですかな?」
「あ、そっちですか? そうなんですよ。漁港の倉庫に眠っていたのを手入れして雑貨として売ってるんです。意外と好評で」
れなが答える声はいつものゆったりした調子。だが、久我は遠くを見透かすような視線を向けている。
「ふむ……漁港にはまだ色々と残されているかもしれませんな。大切に扱うのは良いことだ」
コーヒーが淹れ終わると、れなはカウンター越しに久我へそっとマグを差し出す。
「はい、熱いので気をつけてくださいね。ミルクかお砂糖、要りますか?」
「いえ、そのままでいただこう」
久我はマグを受け取り、一口啜る。深い香りと軽い酸味が鼻をくすぐる。
「ん…良い香りですな。いつもながらお見事だ」
「そう言ってもらえるとありがたいです。…そういえば、朝の巡回ってどんな感じなんですか? 最近、山道で何か騒ぎがあったとか…聞いたりしました?」
れなの問いかけに、久我は一瞬、口を閉ざす。山道にまつわる不穏な噂を思い浮かべたのだろうか。
「騒ぎ…というほどではありませんが、妙に石段が濡れていたり、祠(ほこら)の扉が開きっぱなしだったことがあってね。少し胸騒ぎがする、という程度です」
れながカウンターから身を乗り出し、声をひそめる。
「へえ…そうなんですか。石段が濡れてる…雨でもないのに? ちょっと怖いですね」
「恐れるほどのことはない、と思いたいのですが。なにせ朧区は霧や湿気が多いから、偶然かもしれない。…ただ、気になるのは“人の気配”だ」
一瞬、店内の空気が重くなる。れなは小さく息を呑み、向き合うように久我を見つめる。
「人の気配…? 深夜に誰かが祠に入ったとか、そういうことですか?」
「可能性はありますな。もっとも、いつものように、ただの肝試しの若者かもしれんが」
れなの胸にうっすらと不安がよぎる。朧区の山には何かと噂が絶えないし、紅倉区とも近く、倉庫街ではおかしな出来事も耳に入る。
「わたし、正直こういう話って苦手なんですよね。怪談は平気だけど、“誰かがこっそり夜に動いてる”っていうのは、現実的に怖いです」
「そうでしょう。わしもできればこういう話はせずに、平和でありたいのだが…。」
ふと、外から風が吹き込む音がして、ドアベルが小さく揺れる。霧がほんのわずかに店内へ入り込みそうな気配。れなは急いでドアを見たが、誰も入ってはこなかった。
一瞬、不穏な沈黙が落ちる。だが、れなは自ら笑みを浮かべなおし、コーヒーのポットを持って久我のカップに向かう。
「…すみません、変な空気になっちゃいました。おかわり、いかがですか?」
「ああ、ぜひお願いしよう。ちょうど一口で飲みきるところだった」
れながコーヒーを注ぎ足すと、辺りはふたたび穏やかな香りに包まれる。
「香りって、不思議と心を落ち着けますよね。霧や変な噂に負けないように、日常の温かさを大事にしたいです」
「れなさんらしい言葉だ。わしも何か妙なことがあったら、あまり騒がず、静かに解決していこうと思いますよ。神社だって、いつもの通り祈りの場でありたいからね」
二人はお互いを見合わせて、なんとなく微笑を返しあう。先ほど感じた微かな不安は、コーヒーの湯気とともに揺らめき、いつもの日常に溶けていく。
「そうだ、久我さん。せっかくなので、ここでしか買えないっていうレトロ雑貨を新しく仕入れたんです。見ていかれますか? 棚の奥に置いてあるんですけど」
「ほほう、そういう品があるなら、ぜひ見たい。祠や社の飾りに流用できるかもしれないしな…いや、堂々とは使えませんが、参考程度にね」
そんなやり取りをしながら、れなはカウンターを出て、隣のスペースへ久我を案内する。
窓の向こう、山間の霧はじわじわと濃くなりつつあるが、店内の光は柔らかく、二人の小さな交流を包み込み、変わらない日常を支えている。
こうして、れなのカフェにはほんのりと不穏な気配がさざめきながらも――
そこはどこまでも穏やかな場所として静かに時間を重ねるのだった。