夕方の潮風が倉庫街に吹き抜ける。湿度を含んだ風のせいか、朧げな薄霧が通りを覆いはじめ、視界の端がほんの少し揺れるように揺らめいていた。
MAKIは歩調を緩めずに、その薄暗い路地をまっすぐ進む。子育て支援の講習会が終わったばかりだというのに、何をするでもなくさまよい歩くような姿が妙に似合っている。手には学童の子どもたちが描いた絵の入ったファイルが挟まれているが、気にする風はない。いつもの朗らかな雰囲気はまといつつも、彼女の表情はどこか浮かない。
途切れそうな街灯が倉庫街をぼんやり照らし、「もうこんな時間か」とMAKIはつぶやいた。時間に追われるタイプではないが、中央区から紅倉区までバスで移動してきたことを思うと、そろそろ帰らないと疲れがたまるだろう。けれども、なぜか足は家とは別の方向へ向かっていた。
ほどなくして、大きな倉庫のシャッターの前で立ち止まった。シャッターには丸みを帯びたレトロな看板が掛かっており、「骨董 レトロ雑貨」とだけ筆文字で書かれている。
そう、ここはゆずの店。MAKIはいつぞや学童の保護者から「この倉庫街に面白い雑貨屋がある」と紹介されて以来、気が向くと寄っている場所だ。店主である“ゆず”と話すのは嫌いじゃない。むしろ──と、思い返すように口元が綻ぶ。
骨董、と聞けば年配の趣味かと思いきや、ゆずは二十二歳そこそことは思えぬほど、錆びた看板や昭和のガラス瓶なんかを器用にリメイクしては、観光客にも地元住民にも人気を博しているらしい。MAKIはその若さと柔軟さ、そしてどこかのんびりした空気感に、どこか自分と通じるものを感じていた。
しかし、その日はシャッターが半分だけ下りており、倉庫の内側は暗いままだった。
「閉まってるのかな……」
MAKIは独り言のように口に出した。だが、不意にシャッターの奥からかすかな音──金属が擦れるような響きがする。まるで、古い道具を動かしているかのような振動音だ。
彼女は、外せる範囲のロックを勝手に開けるわけにもいかず、軽くシャッターを手の甲で叩いた。返事はない。おかしいと思い、もう一度叩くと、ガラリと内側から何かを引きずる音がしたが、やはり反応はなかった。
これ以上干渉するのもよくない、と引き下がりかけたそのとき、倉庫の横手についた小さな扉が静かに開いた。
「……MAKIさん?」
現れたのはゆず。エプロン姿に作業用の手袋をはめ、少し埃にまみれている。
「あ、ごめん、ちょっと倉庫が散らかっててね……どうぞ、入って」
おっとりとした声が響き、MAKIの警戒心をほどいた。
「閉店時間、過ぎてるんじゃ?」
「うん、普段はもう店じまいしてるんだけど、ちょっと作業してたから。入ってよ、変なものはないから」
そう言いながらゆずは控えめに笑う。二人は奥の明かりに向かってゆっくり歩き出した。
倉庫の内側は、いつ見ても雑多だ。浮きや網を改造したランプがぶら下がっているかと思えば、古びた陶器や時計まで所狭しと並んでいる。レトロ雑貨好きにはたまらないだろうが、初めて来る人にはただのジャンク品の山に見えるかもしれない。
その雑多な空気の中、ゆずがホウキを置いた場所を示して、促すようにMAKIに視線を送る。
「ごめんね、狭くて。そこ座って。お茶でも淹れるね」
桶のような椅子代わりのケースに腰かけ、MAKIは倉庫の天井を見上げた。蝋燭みたいな照明が揺れながら照らす空間は、どこか秘密めいて、ふだんの学童とは真逆の世界だ。そんなアンティークな雰囲気の中、彼女はふと、子どもたちの描いたファイルを抱えてきたことを思い出して、軽く苦笑した。
ゆずがお湯を沸かす音に耳を澄ませながら、MAKIはぽつりとつぶやく。
「ここの倉庫街って、夜になると一気に静かだよね。……なんだかちょっと、不気味に感じたりしない?」
「ふふ、慣れたら気にならないけどね。でも霧が濃い日はちょっと背筋がゾクッとするかも。MAKIさんはホラー好きなんでしょう? 楽しめるんじゃないかな」
「楽しめる、か……」
彼女は短く笑う。ホラー映画や怪談は大好きだが、実際に危険な状況に遭遇するのは嫌という、矛盾した思いがこみあげる。
そのとき、倉庫の壁際でわずかに物音がした。何かが動いた気配。ゆずは気づいたのか、気づいていないのか、表情を変えないままお湯の注ぎ音だけが響く。
「……あれ、今……何かいたかな?」
MAKIはそっと首を傾げる。ゆずはエプロンのポケットからスマホを取り出し、時間を確認すると、のんびりした口調で応じた。
「猫とかネズミかな。ほら、この辺の倉庫は隙間だらけだから。……ま、死角も多いし、黒霧会だとか闇組織だとか言われるけど、私もそういうのには会ったことないよ」
「そっか……まあ、そうよね」
MAKIは照明代わりの小さなランタンの光に目を細めた。子どもたちの話題とはまったく違う、静謐でレトロな世界。学童での喧噪とは正反対の空間に、どこか癒やされながらも、うまく言葉にできない疑問が頭をかすめる。
ゆずがお茶を差し出してきた。その香りはどこか懐かしく、しかし少し酸味を含んだ匂いがする。
「ほら、飲んでみて。漁師のおじさんからもらった古いお茶の葉なんだとか。平成初期の倉庫に眠ってたんだって。変な味だったらごめんね?」
「大丈夫かな、それ……」と苦笑しながらも、MAKIはゆずの好意を断らず、一口すする。意外にも飲みやすい。
「おいしいよ。ありがとう」
そう言ったMAKIの顔には、つかの間の安堵が浮かんでいた。
二人はひとしきり倉庫に関する雑談を交わしたあと、自然と「街の噂」の類へと話が移っていった。
たとえば最近、夕方からこの倉庫街で見かける正体不明の人影とか、黒霧会の車が入っていったのに出てこないとか、いろいろと好奇心をそそる小話に事欠かない。
ゆずは興味深げに話を聞きながらも、あくまでマイペースに相槌を打つ。MAKIは子どもたちにはない“大人同士”の空気を感じ、こうして語り合う時間がどこか心地よかった。
やがて外の風がいちだんと強くなり、錆びたシャッターがギシリと揺れた。
「そろそろ帰らないと。私、明日も朝から学童があるんだ」
時計を見ると、いつのまにか深夜に差しかかっている。
「そうだね。……じゃあ、またゆっくりお茶しに来てよ。今度はもうちょっと広いスペース、整えておくからさ」
ゆずが笑うと、MAKIも笑みを返す。そこには子ども相手に見せる“安心感”とはまた違う、大人の同士としての微かな繋がりがあった。
倉庫を出て、大通りに面した路地に戻った途端、薄霧が冷たい夜風とともに襲ってきた。街灯の下で、MAKIは思わず身震いする。
「こんなに霧が濃いとは……」
遠くに見えるはずの駅ビルも、ぼんやりとした影にしか映らない。
ふと、誰かが見ているような視線を感じた気がして、MAKIは後ろを振り返った。静かな倉庫街の奥、灯りの消えた建物が不気味に沈黙している。
「……誰もいない、か」
そう思い直して歩き始めたが、その影は一瞬確かにMAKIを見つめていたように思える。
ゆずの店の前からは、優しい明かりが漏れている。中ではまだ何か作業をしているのだろうか。それきり彼女は振り返らないまま、通りを曲がり、タクシーを拾おうかどうか迷いつつ歩き続ける。
わずかな夜風が、倉庫街にこだまする錆びた鉄扉の軋む音を運んでくる。霧の夜、それぞれが抱える秘密や、不安や、ちょっとした不思議な好奇心が絡まり合いながら、紅倉区の深夜は静かに続いていく。
まるで、まだ語られていない別の物語を孕みながら──。