あれは、小学五年の夏休みのことだ。
父方の祖父は、日本の端の小さな島に住んでいる。船で渡るその島は、電波もろくに入らない。都会の喧騒から切り離された、静かすぎる場所だ。
数年ぶりの帰省。祖父の家へ向かう道は、細く曲がりくねった山道が続く。運転に慣れている父は平然としているが、母も、妹たちも、そして僕も、毎回車酔いでぐったりする。
島に着いてからの過ごし方といえば、爆竹を投げて遊んだり、海辺で泳いだり。子どもの僕らにとっては、楽しいけれどすぐに飽きてしまうような遊びばかりだった。
それでも、ひとつだけ毎回楽しみにしている行事があった。父と一緒に近所や親戚へ挨拶回りをすることだ。田舎特有の風習で、訪ねると必ずお小遣いをもらえる。そして、その夜にはみんなが祖父の家に集まり、大きな会食が開かれる。テーブルいっぱいに並ぶ新鮮な刺身――それが僕の一番の楽しみだった。
その夜も同じように、親戚や近所の人たちが次々と集まってきた。笑い声と食事の支度の音が、祖父の家を満たしていく。
だが、その輪の中に、近所に住むCさんの姿だけがなかった。
「遅いな…」
何度か連絡を入れても繋がらない。すると親戚のおばさんであるBさんが「迎えに行ってくる」と言って外へ出ていった。
しばらくして戻ってきたBさんは、肩にCさんを担いでいた。二人とも息が荒く、目がうろたえている。
「大変だ…Cが、ツツガミ様に噛まれおった!」
玄関にいた祖父とAおじさんの顔色が、一瞬で変わった。父もすぐに駆け寄る。
「どっちに噛まれよった?」
「暗くて…わからんらしい」
Cさんは半ば錯乱状態で暴れ、Bさんと父、祖父が押さえつけた。AおじさんがCさんの腕を覗き込み、真剣な表情で言う。
「大丈夫。この傷の向きなら、多分“右”だ」
その言葉を聞いた途端、Cさんは力が抜けたように息をつき、少し落ち着いた。やがて手当てが終わり、何事もなかったかのように会食は始まった。
食事を終え、外で煙草を吸っている父のもとへ行き、僕は尋ねた。
「あの…ツツガミ様って、何?」
父は煙を吐きながら、少し黙り、低い声で話し始めた。
ツツガミ様は、この島に昔から伝わる神様みたいなもんだ。
二つの顔を持つ蛇で、右の顔に噛まれたら幸運が訪れる。
左の顔に噛まれたら、不幸になる。
Cさんはバイクでこちらへ向かおうとした途中、何かに突然噛まれて倒れたらしい。Bさんが迎えに行ったとき、二つ首の蛇が闇の中を滑るように逃げていくのを見たという。
「妹たちには言うなよ」
父はそう言い残し、家の中へ戻っていった。
僕も戻ろうと玄関へ向かったとき、奥から祖父とAおじさんの会話が耳に入った。
「まさかツツガミ様が出るとはな」
「八年ぶりくらいか」
「しかし良かった、今回は右で」
「いや…」
「?」
「Cには悪いことしたと思ってる。あの時は落ち着かせるために“右”って言ったけど…あれ、多分、左にいかれとる」
「それじゃあ、Cは…」
――背中を冷たいものが這い上がってきた。
ツツガミ様に左側を噛まれた者は、必ず不幸になる。
そんな話、僕は信じなかった。霊感もないし、怪談なんて作り話だと思っていた。
だが――一年後、Cさんが亡くなったと父から聞いたとき、偶然と片づけるには、あまりにもあの夜の会話が鮮明によみがえった。
提供:りくま 様
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