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【誰かの手記】神が左手で作った時間

僕の家からそう遠くない山あいの小道を、ある日ふらりと歩いていたときのことだった。
夏の終わりの湿った空気に包まれながら、見慣れたはずの景色がなぜか歪んで見える。
夕方にしてはやけに空気がひんやりしていて、どこかで風鈴の音が聞こえたような気がして足を止めた。
あたりを見回しても道ばたの雑草が揺れる気配はないし、風はほとんど吹いていない。
それでも耳元でかすかに「ちりん」と響いた。
いわゆる空耳かと思い、再び歩こうとしたが、足が進まない。
坂道の先に、見慣れない小屋がぽつんと立っていたからだ。

こんな場所にあんな小屋はあっただろうか。
どう考えても初めて見る。
屋根は少し崩れかけていて、壁は古い板が継ぎはぎされたように見える。
しかし奇妙なことに、そこから放たれる匂いというか空気が、妙に整然としているような気がして、僕は吸い寄せられるように足を向けていた。
ドアはなかった。
代わりに穴が開いていて、あたかも“いらっしゃい”と招いているように見える。
扉が取り外されたのか、あるいは最初から付いていなかったのかは分からない。
中を覗くと薄暗い空間が広がり、壁にかかっているのは大きな古い時計と、いくつかの紙切れだけだった。

僕は無性に怖くなった。
夏の夕方とは思えないほど日の入りが早いのか、まわりの空が急に朱色から群青に変化するような感覚に襲われる。
だけど、いま家に引き返したら、何か大事なものを見落としてしまうんじゃないかという不安が湧いた。
思わず、小屋の中へ一歩足を踏み入れてしまった。
きしむ床板の音がやけに遠くに聞こえる。
壁には書きつけのような紙が何枚か貼られていて、そのうちの一枚には見慣れない文字と、かすれたインクで「Left-Handed Time」とだけ読める言葉が残されていた。
意味がわからないが、何かゾッとする響きを感じた。

部屋の奥に、木製の長椅子があった。
そこに腰かけて、あたりをじっくり見渡す。
窓は一つだけ、小さな隙間ほどしかない。
そこから差し込む夕陽が、神々しいというより不気味な赤に染まっている。
時計は止まっているのかと思いきや、針がしずかに動いている。
だが、動きがおかしい。
長針と短針が逆回転で進んでいるように見えるのだ。
しかも、数秒おきに進む方向が変わる。
外の時間とは無関係に、自分勝手なペースで進んだり戻ったりしている。

この場違いな時計を凝視していると、頭がくらくらしてきた。
まるで意識がどこかに引っ張られるような感覚に襲われて、立ち上がろうとしたとき、壁際にある紙束に目が留まった。
近づいてみると、そこには日付の書かれた一覧が並んでいる。
普通の暦なら「2025年8月」とあれば、日ごとの数字が順に並ぶはずだが、記載されている数字がバラバラで、またぐちゃぐちゃに並んでいる。
さらに、時代がまるで混在しているようで、「1924年」「2037年」「昭和12年」「令和35年」などの文字が同列に書き連ねてある。
書き手はどんな頭をしているのか。
正直、悪い冗談か何かだと思い、そこから目をそらそうとしたが、なぜか頭が痛むようにズキズキする。

小屋の外を見やると、空がもう真っ暗になったのかと思うほど暗くなっている。
いや、夕陽が完全に沈んだのかもしれない。
さっきまでの朱色は嘘のように消え失せ、星も見えない夜が訪れていた。
しかし、その静けさの中で僕は自分の腕時計を見下ろし、驚愕した。
腕時計の針は夕方の5時を指したまま止まっている。
周囲の時間や光の変化と、この腕時計の表示がまったく合わない。
どこかで聞いたことがある、神の右手で作られた時間は万物を司るけれど、左手で作られた時間は秩序を持たずに世界を壊す、という言い伝えのようなものを思い出した。
子供の頃、おばあちゃんにそういう話を聞かされたのだ。
「右手で生まれた刻はみんなの時間。左手は“創ってはいけない”ものだ」と。

ふと、小屋の中がほんのりと薄明るくなった気がして、天井を見上げる。
まるで昼の光が差し込むかのように、隙間から白みがかった光がこぼれている。
夜だったはずなのに、今度は昼に近づいているようだ。
時計は右回りと左回りを同時に行うような不可解な動きを続け、壁の紙には日付が順番を狂わせながら勝手に書き変わっていく。
たとえば、昨日の日付が明後日の隣に記載されたり、昭和の一欄に「令和47年」なんてあり得ない数値が紛れ込んだりする。
何らかの力で、この空間が無理やり時間をねじ曲げているとしか思えない。

僕は逃げ出したいのに、足が動かない。
無理やり踏み出そうとしても、まるで床に吸い付かれているかのようだ。
「選べない」という言葉が頭をよぎる。
さっきから行動を変えたくても身体が言うことをきかない。
神の右手が司る“普遍の時間”なら、自分の意思で進み、帰ることができるだろうに、どうやらここでは左手の時間が支配していて、自分の自由意思はほとんど意味をなしていないらしい。
考えごとをしているうちに、壁に掛かった紙に奇妙な一文が浮かび上がった。
「お前の選択はすべて余白に帰す」
インクが突然現れたように見えたから、目を疑ったが、紙面にしっかりそう刻まれている。
まるで何者かが僕の意志を嘲笑うように、全てを余白の中で無効化してしまうかのメッセージに思えた。

突然、かすかな騒音のようなものが耳を打つ。
その方向を目で追うと、奥の床に何かの扉か蓋のようなものが浮かび上がっている。
不気味だが、そこ以外に出口はなさそうだ。
足がやっと動き始め、するすると床の蓋へ近づいていく。
蓋には古い銀色の錠前が付いているが、鍵は見当たらない。
それでも手を伸ばすと、するりと錠前は外れ、蓋が開いた。
下から吹き上がる風も音もなく、ただそこには漆黒の穴が口を開けていた。

その穴から、遠くの方でかすかに人の呼吸のような響きが聞こえる気がした。
あるいは、自分が無意識に出しているものかもしれない。
階段があるのかどうかもわからないが、僕はそこに足をかけた。
落ちるかもしれないのに、止まれない。
瞬間、視界が白く染まり、自分の身体が宙を舞うような錯覚を覚えた。
同時に、天井の時計が乱雑な音を立てた。
時間が一斉に逆流し、あるいは先へ跳ね、体感と現実がずれていく感触が加速する。

気づくと、僕は薄暗い野外に立っていた。
小屋などないし、周囲はうっすら朝の霧に包まれている。
場所は山あいの小道に似ているが、明らかに様子が違う。
樹木が生い茂り、地面には動物の足跡ともつかない痕が多数散らばる。
腕時計を見ると、秒針が止まったまま。
日付表示にはあり得ない数字がちらついている。
しかし、少なくとも身体は動くし、自由に歩けるようになった。
振り返るが、小屋らしき建物は見当たらない。
大きく息をつき、そこから歩き始めると、視界の端で誰かが笑ったような気がしたが、姿は見えない。

果たして、いま自分がいる時代や場所は正しいのだろうか。
このまま山を下れば、戻るべき家や家族のいる世界なのか。
あるいは、もう左手の時間の中に埋もれ、元の人生からは外れてしまったのかもしれない。
とにかく、僕は歩き続けるしかない。
この時間の混乱が、神の左手で“創られたもの”だとしたら、どこかにそのしるしが残っているかもしれない。
そう思いながら、強烈な既視感と闘いつつ、道なき道を前へ進んだ。

やがて、薄青い光が森の隙間から射し込む。
先へ進むにつれ、風鈴の音がまた聞こえた。
まるで最初に聞いたときと同じ音色だ。
それが導きなのか、罠なのかはわからない。
けれども、足を止めてはいけない気がして、歩調を速める。
鳴り響く音が近づくにつれ、胸が軋むような痛みを覚えた。
それは恐怖か喜びか、判別がつかない。
思考が渦を巻き、まるで自分の意思と身体がずれているようだ。

だけど、もしかすると、僕はもうとっくに自由意志を失っているのかもしれない。
この世界において、自分がどこへ行こうが、それさえ左手の時間に弄ばれているだけだという説が頭をもたげる。
それでも歩かずにはいられない。
誰かが決めた筋書きかもしれないが、立ち止まってしまえば永遠にこの場に閉じ込められそうだから。
最後にたどり着いた場所は、小川が流れるほとりだった。
水面に目を凝らすと、そこに映る自分は確かに僕だが、どことなく目つきが昔と違う。
顔の輪郭も微妙に変わっているように見える。
まるで他人に入れ替わったかのようだ。

そっと川に手を浸す。
水が冷たいが、その感覚が妙に懐かしく思える。
まるでこの指先が、どこかで時間と溶けあった痕跡をまだ覚えているようだ。
思えば最初に小屋へ入ったとき、あの古めかしい時計を見つけた瞬間から、僕は次々と不可解な選択を余儀なくされた。
というより、選択などできず、ただ流れに乗るしかなかったのかもしれない。
立ち止まることすら、左手の時間が許さなかったとしたら。

ふいに、薄暗い林の方から突風が吹き荒れ、周囲の葉が一斉に舞い上がる。
まぶたを閉じて耐えると、風が止んだあとには、森の奥に小さな人影が見えた。
子供くらいの背丈だが、顔までははっきりしない。
それが僕に向かって手を振るでもなく、ただじっと佇んでいる。
足元に影はなく、まるで境界に立つ亡霊のよう。
一歩近づこうとした瞬間、風鈴の音が再び響き渡り、その人影は跡形もなく消えていた。

僕はしばらく動けず、足が震えた。
けれど、そこで気づく。
この場所の空は不自然にオレンジ色の光を帯び始めた。
まるでまた夕方が迫っているような。
いや、さっきまで昼間だったのに、わずかな時間で夕方に変化するなんてあり得ない。
神の右手が生み出す秩序立った時刻とは違い、左手の不確実な時間がまだ僕を囲んでいる。
おそらく、僕はまだ抜け出せていないのだろう。

それでも、一瞬だけ、人影がいた場所に微かな温もりを感じる。
まるで誰かが、「まだ出口はあるよ」と教えてくれたような気がして、僕はもう一度歩き出す決意をした。
もし自由意志がほんの少しでも残っているなら、左手の時間に屈せず、この不可解な時の波から逃れる道を探してやる。
そっと胸ポケットに手を入れると、そこには最初に小屋で拾った紙切れの一部が折りたたまれていた。
文字がほぼ消えかかっていて読めないが、かすかに「Left-Handed Time Sur…」という文字が見える。
その続きを見る術はもうなさそうだが、僕は何となく心が落ち着いた。

時計の針が正しい時間を指す保証はどこにもない。
いっそ、こうしていつまでも夕焼けと朝焼けが交互に繰り返される世界に囚われるかもしれない。
しかし、ほんの一瞬のすき間に、誰かが差し伸べてくれたかもしれない手を頼りに、僕は歩き続けるつもりだ。
たとえ選択の大半を奪われても、その最後の一歩だけは自分の意志で踏み出したいから。
それが神の左手に創られた時間の中でも、わずかながら許される抵抗なのかもしれない。

そして、今。
遥か向こうで再び鳴る風鈴の音が、微かな希望に似た響きになって僕の背中を押すようだった。

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